「あなたは、どこに立っているでしょうか?」



と言われても、基準がなければ、自分がどこにいるのかハッキリすることはできないですよね。


「あなたはどの位置にいますか?」と言われても、ある基準がなければそれを明確にすることはできません。


基準があって、「自分はその左にいる」、「その右にいる」という事ができますね。



今回、みなさんにご自分に問いかけていただきたいのは、神様との関係において、あなたはどの位置に立っておられるかという事です。


今回はみなさんと一緒に神様との両極関係という主題で考えていきたいと思います。


「両極」とは「両極端」という意味ですけれども、今回見ようとしている箇所には、ある意味その両極端という状態、人たち、を見る事ができます。


神様との関係において、両方の意味で極端な人達、そしてそれが、片方が一番右で、片方が一番左であるとするならば、みなさんはその間のどこかにいるわけですね。


「そこに私は当てはまらない」という人はいないはずです。


ですから、私達自身は神様との関係においてどの位置に立っておられるか、それを一緒に考えていただきたいと思います。


そして、それだけではなくて、もちろん神様が望まれる位置へと進んでいくという決心をして頂きたいと思います。




今回も2つのポイントで考えてみたいと思います。



◆ポイント◆


1・「聖霊をけがす者」(19節後半~30節)


旧約聖書をよく勉強している学者達がイエス様に「あなたは悪魔に力をもらって人の中にいる悪霊を追い出している」と言いました。


イエス様は「自分で自分をいためつけらたら立っていられないではないか」とおっしゃいました。


本当はイエス様は悪魔よりも大きな力をもっておられるので悪霊(悪鬼)を追い出すことができたのです。


学者達が言ったことは「聖霊をけがす」ことでした。


この人達は普通の人達より賢いのにイエス様について間違ったこと(ウソ)を言ったからです。


わかっていながら良いものを悪いと言ったり、悪いものを良いと言ったりする(続ける)がんこな人は神様に救っていただくことができず、永遠の罰をうけなければなりません。




神様との関係における両極、その片方の極端ですけれども、マルコ伝3:19後半から30節の中で見ることができます。


どのようにそれは表現されているか、一つの表現として29節にあります。


「聖霊を汚すもの」という表現がありますね。


これは神様との関係において、一つの極端な位置にある人…。

たとえて言うならば、「一番右側にいる人」としましょう。


19節の後半でイエス様が家にお入りになったとあります。

それは恐らくカペナウムというところに戻られたという意味であろうと思われますけれども、それで前のごとく、多くの人々がイエス様のところに集まってきました。


人々はイエス様の地上でのいろいろなお働き、そこには奇跡がありました。そこにはまた教えがありました。

多くの場合人々はその奇跡など物珍しいものを見たい、またあるいは空腹であるならば食べ物を得たい、病があるならば癒されたい、あるいは病を持っている人を知っているならば、イエス様の元に連れていきたい、そういう人々がイエス様のところに続いて集まって来ているわけです。


そしてイエス様は食事をする時間さえない状態にあったわけですね。


それは客観的に見るならば非常に忙しい状態、過労の状態と言えると思います。


さて、21節に「その親族の者これを聞き」とあります。


この「親族(みうち)」という言葉は、もともとは「友人」とも訳される言葉ですけれども、この場面では恐らく、家族、親族であろうと思われます。


その人たちが、「イエスを取り押さえんとて出で来る」とあります。


この「取り押さえる」というのは非常に荒々しい表現ですね。


確かにこの言葉と言うのはイエス様に反対する人たちが、イエス様にしようとしていたその表現として使われています。


マルコ12章12節「ここに彼等イエスを執らへんと思ひたれど、群集を恐れたり…」とあります。


それと同じ言葉が使われています。


マルコ14章の最初のところでも「…祭司長、学者ら詭計をもてイエスを捕へ、かつ殺さんとて企てて言ふ、」とあります。


ですから「逮捕する」という意味の言葉がここで使われているわけですね。


「親族(みうち)の者たち」というのは恐らくイエス様のふるさとと言われるナザレから来ていると思われます。


このイエス・キリスト様の働き、忙しい働き、20節にあるような食事をする時間さえないような過労状態にあるイエス様のことを聞いて、ナザレからやって来た…。


ですから、この「取り押さえんとて」というのはイエス様をナザレへ連れ戻すつもりで恐らくやってきたと考えられるでしょうね。


そして21節の最後のところに「イエスを狂へりと言ひてなり。」とあります。


この「狂へり」とはまた、ある意味とても過激な表現ですね。

私たちが日常生活の中で、「あの人は狂っている」というと相当な形容詞ですよね。


狂った状態、これは場合によっては差別用語にもなるかもしれません。


これは精神的な意味で、どうかしてしまっているという意味合いがあったのかも知れませんが、このような忙しい日々の中で過労によって、「精神的に極度に疲れているだろう」と、「そういう中で普通ではなくなっている」という心配、良い言い方をすれば、そのような心配もあって、イエス様を保護するために出て来たということも考えられます。


この表現というのは、イエス様に対する身内の人たちの、正しい理解がないといえばないのでしょう。


イエス様は神の御子として肉体を取ってこの地上に来られました。

イエス様はおっしゃいました、「この地上に来たのは、父なる神様の御心を行うためである。」それを実際イエス様はしておられたのです。


ですからそれは確かに忙しい、食事を出来ないほどのようなものであったには違いないのですが、それはイエス様の本分でありました。


それを彼らは理解していなかったといえます。


もう片方の面からいうならば、この身内の人たちが、いかにイエスキリスト様を心配していたかということも表しているといえば、表しているのかもしれません。


このような人たちが登場するのですが、22節~30節では、この身内の人たちの話というのが少し棚上げ状態になります。


22節から他の人たちが登場してくるわけです。


22節「又エルサレムより下れる学者たちも『彼はベルゼブルに憑かれたり』と言ひ、かつ『悪鬼の首(かしら)によりて悪鬼を遂ひ出すなり』と言ふ。」


他の人たちがイエス様のところに来て、また他のことをこのようにイエス様に言っております。


この「エルサレムから来た学者たち」とは、恐らく宗教的な立場にある人達で、上の人たちから派遣されて来た人たちであろうと思われます。


イエス・キリスト様の動向、今までの足取り、何をしておられるのか、それに対する群集の反応、それらを恐らく当局は察知しているはずですね。


このような学者と呼ばれる人たちとは、律法の専門家達であり、旧約聖書をよく知っている人たちです。


そういう人たちがイエス様のところに来て、言った言葉は「彼はベルゼブルに憑かれたり」…。


このベルゼブルというのは、「家の主人」という意味があるのですけれども、悪霊の君主であるサタンの名ですね。


マタイ伝10章を見ますと、こういう言い方がなされています。


ここはこのマルコの記事の並行記事ではありませんが、マタイ伝10:25の後半に「…もし家主をベルゼブルと呼びたらんには、」とあります。


「家主」…つまりその家の長ですね。

まさにベルゼブルというのは家の長、家の主人という意味があるのです。


ですから言葉を変えて言うならば、この学者たちがイエス様に対して言ったのは、「イエスというのは悪魔に憑かれている」と、「とり憑かれている」と言っているのと同じ事なのですね。


他の場面で、ヨハネ伝10章のところで、「彼は悪鬼につかれて、気狂えり」とあります。


先ほど、親族(みうち)のものたちがイエス様を狂っていると言いましたね。


このベルゼブルという言葉は、一つの神の名で、「エクロンの神」というのが旧約聖書で出てきますが、これは「バアルゼブブ」と呼ばれるもので、ハエの主人であると…もっと色々汚い言い方があるのですが、ユダヤ人にとっては軽蔑する神々の呼び方なわけですね。


ですから、この呼び方を邪悪な者に使うわけです。

つまり、悪魔にそれを使うわけです。


この学者たちは、イエス様に向かって、「彼はベルゼブルに憑かれたり」と、そのようなことを言ったのです。


そしてこの後半で「かつ『悪鬼の首によりて悪鬼を遂ひ出すなり』」と言いました。


常にイエス様は悪霊を追い出すとか、汚れた霊を追い出すとかという奇跡をなさいました。


しかしそれは「悪鬼の首によりて悪鬼を追い出す」つまり簡単に言うならば「悪魔から力をもらってそれをしているんだ」と学者達は言っているわけですね。


病と悪霊にとりつかれるとはどうやら関連があるようで、たとえば「ものを話すことが出来ない人」が悪霊に憑かれているという記事もあります。たとえばルカ伝11:14、15「さてイエス唖のしの悪鬼を遂ひだし給へば、悪鬼いでて唖、物言ひしにより、群集あやしめり。其の中の或者ども言ふ『かれは悪鬼の首ベルゼブルによりて悪鬼を遂ひ出すなり』」


ですから、ものが言えないのは悪鬼にとり憑かれているからであると…そして悪鬼を追い出すことによって、ものが話せないことが癒されると考えられていました。


マタイ伝9章にも同じようなことが出てきます。


学者たちはイエス様に対してそういう見解を述べたわけです。


23節から27節で、イエス様が反論されるのですが、それをたとえによって反論なさいました。


23節「イエス彼らを呼びよせ、たとへにて言ひ給ふ『サタンは、いかでサタンを遂ひ出し得んや。』

24節「もし国分れ争はば、其の国立つこと能はず。」

25節「もし家分れ争はば、其の家立つこと能はざるべし。」

26節「若しサタン己に逆ひて分れ争はば、立つこと能はず、反つて亡び果てん。」


イエス様は確かに悪鬼を追い出されました。それは事実ですね。

イエス様がおっしゃっておられるのは23節で、「サタンは、いかでサタンを遂ひ出し得んや。」…。


もしサタンの力によってそれをしたのであれば、悪魔の力によってそれをしたのであれば、悪魔は自分自身に戦いを挑んでいることになる…そのようなことがあるか?と言っておられるのです。


24節では、一つの国が国の中で分れ争うなら、この国は強力に立っていられるのか…亡び果てるだろうと言っておられるのです。


家の中で家族の中で争いがあるのなら、その家族がしっかり立っていることができるのか、協力関係にあることができるのかと言っておられるのです。


決してそのようなことはない、そんなおかしいことはない、とおっしゃっているのです。



では、そのたとえからの結論ですが、一つはイエス・キリスト様は、悪魔サタンと共謀することはできません。

それは当然と言えば当然ですね。


神の御子イエス・キリスト様が、敵であるサタン、敵である悪魔と共同して、共謀してそのようなことをするということはありえないのです。


そしてもう一つは、主イエス・キリスト様は、サタンの働き、悪魔の働きというものを破壊しておられます。


27節で「誰にても先づ強き者を縛らずば、強き者の家に入りて其の家財を奪ふこと能はじ、縛りてそ後その家を奪ふべし。」とあります。


誰かの家に押し入るとするならば、そこで一番強い存在を抑えなければ、縛らなければ、そこを乗っ取るということは出来ないですよね。


ここで言われている「強き者」と言われているのは悪魔を指しています。


そしておそらくこの「その家の家財」とは、サタンに縛られている人たちのことを指すのかも知れません。

いずれにしてもこの27節で言われている「強いものを縛って、その家のものを奪うことができる」のはイエス・キリスト様、つまりイエス様はサタンよりも大きな力を持っておられるということをここで表現しておられるのです。


さきほどイエス様が反論された26節の中で「若しサタン己に逆ひて分れ争はば、立つこと能はず、反つて亡び果てん。」とあるのですが、この亡び果てんとは、文字通りには終わりが待っているという事です。


やがての時、悪魔、神の敵であるサタンは落とされる、滅ぼされると…やがて終わりは来ます。


27節にあるように悪魔という存在は一定の強い存在である事は確かなのですが、その存在を主は縛ることができる、勝利することができる、それであるからこそ私達、罪に縛られ、悪魔に縛られていた者たちが解放されて神に就ける民として変えられていくわけです。


さて、28、29節に「誠に汝らに告ぐ、人の子らの凡ての罪と、けがす瀆しとは赦されん。然れど聖霊をけがす者は、永遠に赦されず、永遠の罪に定められるべし』」とあります。


「けがす瀆し」という表現がなされていますね。

このことばは、「謗る」という意味で訳されている箇所が何度か出てきます。


「謗る」というときには傷つけるようなことを言う、非難する、軽蔑する、馬鹿にする、いろんな意味があると思いますけれども、人々は聖なるお方、神の御子なるイエス・キリスト様に対してけがしごとを言っているというふうにもイエス様はおっしゃいました。


やがてイエス・キリスト様は十字架の死へと向かって行かれます、それは決して裁判と言えるようなものではありませんでしたが、その中で、イエス様がご自分を神の御子であるというふうにおっしゃった時、「あなたがたはけがしごとを今聞いた」というふうに言いました。


イエス様の地上の働きの中でもそのような場面はありました。


イエス様はルカ伝の5章の中やマルコ伝の中にも記述されていますが、人々が自分の友人、歩くことができない人を連れて来て、屋根に上って瓦を取り除けて、そしてその人をイエス様の前に吊降ろして、そしてルカ伝5章20節で「イエス彼らの信仰を見て言いたまふ『人よ、汝の罪ゆるされたり』」とあります。



「あなたの罪は許されました」とイエス様は宣言されました。


すると、ルカ伝5:21で「ここに学者・パリサイ人ら論じ出て言ふ『瀆言をいる此の人は誰ぞ、神より他に誰が罪を赦すことを得べき』」と言いました。


この瀆言(けがしごと)を言うのは誰なのかと、神様以外に誰が罪を赦すことができるのか、と言いました。

真実を知らない人にとって、イエス様の発言というのは瀆言(けがしごと)にすぎないわけです。


イエス様はこうもおっしゃいましたヨハネ伝10:30から、「『我と父とは一つなり』ユダヤ人また石を取りあげてイエスを撃たんとす。イエス答へ給ふ『われは父によりて多くの善き業を汝らに示したり、そのいずれの業ゆえに我を石にて撃たんとするか』」


33節「ユダヤ人こたふ『なんぢを石にて撃つは善きわざの故ならず、瀆言の故にして、汝人なるに己を神とする故なり』」


ユダヤ人たちは言いました。

イエス様が「私は神である」とおっしゃったこと、それはけがしごとであると、冒涜であると…。


神様に対する勢力、その敵、彼らは名前自体が神様をけがす名であります。

黙示録13章1節や17章3節では「神を瀆す名」と出てきます。


父なる神様によって遣わされ人となっておいでになったイエス・キリスト様、救い主なるお方を敵に回してですね、『瀆言(けがしごと)を言っている』と言う…そういうこと自体が瀆言(けがしごと)なのです。


この「けがす瀆し」とは、マタイ9章3節で「この人は神を瀆すなり」というような呼び方もされています。


かつては、パウロという人もそのような瀆言(けがしごと)を言うことを奨励していた、励ましていたということを後に述べています。


使徒行伝26章11節で、彼がアグリッパ王の前で弁明しているなかで、このように言ってます。


使徒行伝26:11「諸教会堂にてしばしば彼らを罰し、強ひて瀆言を言はしめんとし、甚だしく狂ひ、迫害して外国の町にまで至れり。」


確かに彼は荒々しい性格であったのでありましょう。

そういう中でクリスチャンたちを迫害して、そして瀆言(けがしごと)を言うことを強制しています。

もちろん彼は神様の憐れみによって、劇的な回心を遂げて神様のみ名を伝える者に変えられました。


イエス様がマルコ伝3:28で言われているのは、「人の子ら」、この人の子というのはイエス様のことではなくて、人間のことですね。


人の全ての罪、そして、けがす瀆し、瀆言(けがしごと)、それらは赦されると…。


しかし29節、「然れど聖霊をけがす者は、永遠に赦されず、永遠の罪に定められるべし」とあります。


基本的に罪は赦されます、全ての罪は赦されます、しかしここに例外が一つあります。


「聖霊をけがすものは永遠に赦されず、永遠の罪に定められるべし」


永遠の罪に定められるというのは文字通りには、その人は永遠のさばきの危険の中にあるということです。



では、聖霊をけがすとはどういうことなのでしょうか?


今回の箇所というのは並行記事は、マタイ伝の12:22から37節、そしてマタイ伝にはマルコには載っていない記事があって、またマタイ12:46~50というふうになっているのですが、このマタイ伝12章のほうを見るときに、22節にこうあります。


「ここに悪鬼に憑かれたる盲目の唖者を御許に連れ来りたれば、之を癒して唖者の物言ひ、見ゆるやうに為したまひぬ」


今までイエス様がなされてきたように、ここでも人々の癒しをなさいました。


この場面では目が見えなくて、ものも言えなくて、更に悪鬼に憑かれているという、ある意味最悪な状態の人がイエス様のところに連れてこられるのですが、これをイエス様は癒された、言葉をしゃべるようになった、見ることができるようになった、当然悪鬼は追い出された、悪霊は追い出されたというわけですね。


これらの主の業、奇跡というのは普通に考えて、常識で考えて、それはよいこととして認識されるものなわけです。


しかし問題なのは、この学者たちがマルコ伝3:22で言っていることなのです。


彼らは本当は聖霊の力によって、神様の力によって、なされたはずの業を、この学者たちは「サタンの力によって、悪魔の力によってなされたんだ」と言うわけです。


それは認識が誤っている、もっというならば、充分な認識がありながら、なおそのような態度であるといえますね。


この学者達というのは、昨日、今日、聖書の言葉を聞いた人たちではありません。


少しかじった程度の人たちではありません。


知識という点では一般の人たちよりも持っている人たちです。


それなのに、それが目の前でおこっていてもあえて受け付けない、光を闇と呼ぶような人達なわけです。


イザヤ書5章20節にこうあります。


「わざわひなるかな かれらは悪をよびて善とし暗きをもて光とし光をもて暗とし苦きをもて甘とし甘をもて苦とする者なり」


これは最悪に捻くれた状態ですね。


悪い物を良いという、良い物を悪いという、暗いものを光だと言い、光っているものを暗いという、苦いものは甘い、甘いものを苦いと…ですから彼らのしていることと言うのは意図的に、そしてまた不敬虔にも神のご聖霊のご人格、そしてその働きを謗っているわけです。


認めないのです。

馬鹿にしているのです。


ですから、そのような者たちはもう、赦しの可能性を失うわけですね。


充分な認識がありながら、なおそのような態度である、それは最悪の罪です。

ですからマルコ伝3:5にあるようなイエス様が憂いを持たれたその心の頑な、頑固さの悲劇というのはそこにあるのです。


真実を知らされてもそれを受け入れない、それを認めない、そこには、さばきあるのみですね。


聖霊を汚すとは、イエス様について、神様の力によって悪霊が追い出されたのに、そのことは「悪魔によってなされた」、「悪魔の力によってなされた」と主張すること…それがここで言う「聖霊をけがす」ということであります。


その人は「永遠に赦されず」とあります。


神様が厳しすぎるのでしょうか?


これは、神様が赦すことを拒んでおられるのではなくて、人の側が赦していただくところに自分の身を置こうとしないわけです。


私達の救いということを考えたときにも、確かに神様の側で救いの計画はなされました。

救いの招待、招きというのはなされています。


そういう意味で人々が救われる可能性は、そこにはあるわけです。


ある意味そこではもう、赦されているわけです。


しかしながら人の側がそれを受け入れない、手に取らない、赦していただくというところに身を置かないとするならば許しは成立いたしません。


ですから「永遠に赦されない」ということになるわけですね。


このマルコ伝3:28、29を読んで、確かに人の罪は赦される、どのような罪であっても赦される、でも聖霊をけがす者は永遠に赦されないと知って、それで心配になられる方がいらっしゃるかも知れません。


「私は聖霊をけがすような罪を犯したのではないだろうか?」…と。



一つの考え方として、「そのような罪を犯したのではないか?」と心配する人で、実際犯した人は、たぶんいないであろうと思われます。


どういうことかと言いますと、実際にそのような罪を犯した人というのは、もう、大幅な意味で「悪」というものに支配されていて、そのような重大な罪を犯していることさえ気づかない状態にあるのですね。


私達は真実を知らされました。それを受け入れました。

もう、この一つのポイントで答えは出されているようなものですね。


しかし、この聖霊をけがす人たちというのは、教えられながら、知らされながら、真実を提示されながら、それを意図的に拒む…。


もちろん、厳密な意味で聖霊をけがすという罪を犯しているとは言えない人たちであっても、結果的に多くの人々は神様からの真実のみことばを受け入れない…行き着くところは、この29節の最後にある「永遠の罪に定められる」というところに行くわけです。


30節で「これは彼らイエスを『穢れし霊に憑かれたり』と伝へるが故なり。」とあります。


なぜ彼らは聖霊をけがすものなのか?という理由をイエス様はおっしゃいました。


そのような霊を追い出したのは、イエス様自身が汚れた霊に取り憑かれているからだと、そのような冒涜な発言をしたわけです。


これは、神様との関係において、一つの極端な位置に自分を置いた人と言えるのです。

永遠に救われることがない位置に置いたのです。



さて、もう片方の極端な人を31節以降で見ていきたいと思います。



<次の記事に続きます。>