3・「いばら」(7節・18節-19節)-二心


三番目の人もみことばを聞きます。しかしこの人には邪魔なものがたくさんあります。


生活のこと(勉強・仕事・家庭…)、人との付き合い、お金、レジャー、スポーツなど、いろんなことが「みことば」を聞くことと同時進行しています。


そしてこの世の中のいろんなことがみことばを聞く邪魔をしたり、みことばに従うことを出来なくしたりしていきます。


芽が出てもいばらや雑草が邪魔をして栄養や日光を充分受け取れないようにするように、この人は世の中のことで忙しくなったり、世の中のことの方が大事になったりしてクリスチャンとして正常に成長することができないのです。



さて、三つ目に7節を見てみます。


「茨の中に落ちし種あり、茨そだち塞ぎたれば、實をむすばず。」


今度は茨の中とありますね。

この茨の中に落ちた種、そしてその土壌というのは、一言で言うなら二心の状態とも言えます。


茨や、茨を含む雑草、それらは、その種…それが麦であるか何であるかは分かりませんが、育って欲しいと思っている物に行くべき養分や日光というものを、雑草たちが塞いでしまう、遮断してしまうということですね。


ですから、結果的に充分に育たない、つまり実を結ばないということになります。


実をつける物を播くという事は、実を生らせること、実を収穫する事が目的ですね。

実は生らなくてもいいけど、途中まで楽しむという人というのはあまりいません。


実が生って目的が達成されるのですが、ここでは茨や雑草によってさえぎられると言っています。


そしてこの説明を18節、19節でイエス様はされています。


「また播かれて茨の中にありとは斯る人をいふ、即ち御言をきけど、世の心労、財貨の惑、さまざまの欲いりきたり、御言を塞ぐによりて、遂に實らざるなり。」


確かにみことばを聴くのですが…それは前の「路の傍ら」の人と「礎地」の人と同じです。

しかし、ここではいろんな物が、その人の邪魔をするのです。


世の心労、財貨の惑、さまざまの欲…。


この「世の心労(こころづかい)」というのは、文字通りには「時代の妨害」あるいは「時代の妨害率」と読めますが、目の前の一時的な物事、色んな問題、それが、大事な福音に関わる問題について目をくらましてしまう。


それは最初の「路の傍ら」の人とも似ているのですが、色んなもので人々が塞がれていく、生活の様々なことで心配しなければならない事、考えなければならない事、いろいろ計画しなければならない事、そしてまた人間関係、それは学校でも、家庭でも、会社でも、地域でも様々あるわけです。


そういう、雑用とは言いませんが、世の中で生活していく中で様々な事柄、忙しくされるそういう事柄、この世の心労、それらがみことばを塞いでしまう。


もう、みことばを聴いても、それらの事で心がふさがれてしまうということです。



あるいは「財貨の惑い」、人々は物質的な物によって、多くの人々は本当の満足を得ようと、幸せを得ようとします。


何々を手にすることが幸せなんだとか、そういう誤った安心感、満足感を求めてしまいます。


しかしながら結果的にそれは実現しない場合が多く、そしてまた霊的永遠の事柄を考えようとすることを阻んでしまいます。



それは、ある人にとってはお金が惑いになり、物が惑いになり、ある人にとっては身分、地位、そういうものが惑いになるかもしれません。



そういう物が惑わしとなって、みことばが届かない、邪魔されるということでしょうね。


そして「様々の欲」、それは人が基本的に楽しむ部分があると言えるでしょうね。


それが趣味であったり、スポーツであったり、娯楽であったり、レジャーであったり…。


もちろん、全てそれが悪いというわけではありません。


その中には道徳的なものから、不道徳的なものまでありますけれども、それがみことばを塞いでしまう程度にまで満たされてしまうならどうでしょうか?


まさに真の神様を知らないこの世の中というのはこういう様々な事柄によってふさがれてしまうのです。


みことばが語られ、みことばに耳を傾けないわけではないのでしょうけれども、本当にみことばが心に入って霊的な意味で芽を出して、成長して、しかも実を結ぶというところにまではなかなか行かないのです。


結果として19節の最後にあるように、実らなくなる…実がならないということは役に立たないということになりますね。


神様の前で価値のある生き方にはなっていない、この世でいかに、この世的には実りのある生き方をしたとしても、大きな功績を残したとしても、それは神様の前では焼き尽くされてしまう、木、草、藁ということになります。



4・「良き地」(8節・20節)-実り豊か


最後の人の心はみことばを受け取るために、一番整っています。

ちょうど土がよく耕され(硬くなく)、深く種が入り(浅くなく)、いばらや雑草が取り除かれているようです。


この人は素直にみことばを聞き、真剣に受け止めて従い、神様が喜んでくださる生活をします。


この最後の人だけが神様の前で価値のある生き方をしているのです。





さて、最後に「良き地」とあります。


「良き地に落ちし種あり、生え出でて茂り、實を結ぶこと、三十倍、六十倍、百倍せり」8節


当時の事であるのか、一般的にそうであるのかよく分かりませんが、ある解説によりますと、種を播いた量と収穫量の平均的比率というのは、こうであればまあまあというものであると思われますが、それは1対8の割合であると言われているそうです。


ということは8倍ということになるのですが、でもここで言われているのはその程度ではないですね。


三十倍、六十倍、百倍とあります。


20節でイエス様が解説されています。


「播かれて良き地にありとは、斯る人をいる、即ち御言を聴きて受け、三十倍、六十倍、百倍の實を結ぶなり」20節



良き地とはどういうものなのかという説明はここではないのですが、少なくとも既に見た先の3つのような状態にはないということですね。


そこは硬い場所ではなく、また土が浅い場所でもない、茨や雑草が育っている場所でもない…。


この良き地というのは、一言で言うなら実り豊かな場所であります。


これを霊的な意味で、みことばを聴くという意味では何を意味しているのでしょうか?


その人の心というのは非常に柔らかいのですね。


そしてみことばを心深くに留めることができる、そしてまた様々な世の事柄には捕らわれていない…


20節で3つのことが言われています。


みことばを「聴いて」、「受けて」、そして「実を結ぶ」。


先の三つの状態の人は確かに聴いたかも知れません。


でも、本当に受けたかどうか分からないのですね。


ですから、三番目の実を結ぶというところまでは到達しないのです。


しかしながらこの「良き地」の人、一番適当な土壌、環境、そのような整った心の人は、そのみことばが語られるとき、あるいはみことばを読むとき、教えを受けるとき、それをちゃんと素直に聞いて、それを受け止めて、そして自らの生活に当てはめていく…。


改めるべきところは改めて、身につけていくべきところは身につけて…。


ですから、実を結ぶ、つまり神様が望まれる状態にしていただける。

また神様が望まれることを行う人とされていくわけです。それが継続されていくわけです。



◆まとめ(結論)◆


みことばを正しく受け取るために心の土壌を整えましょう。


イエス様を救い主として信ずる(みことばを受け取る)ためには、神様に心を変えていただく必要があります。

まだイエス様を信じていないならば素直にイエス様を信ずる(イエス様の死と復活が自分のためであったと信ずる)ことができるように神様に祈りましょう。


あなたがイエス様を信じているクリスチャンであるならば、クリスチャンとしても続いて神様のみことばを素直に聞き、受け止め、従う人にしていただきましょう。


そうするならばあなたは神様のために役にたつ、また周りの人によい影響を与えることができる人として生活できます。




さて、最後にみなさんに考えていただきたい、あるいは受け止めていただきたいひとつの事は、みことばを正しく受け取るために、心の土壌を整えるということでした。



今回の箇所というのは種まきのたとえで、それをみことばに対する応答とそして結果ということが述べられているのですが、それらに関する命令はないのですね。


「こうだから、こうでなければいけない」というものではないのです。


ただ、「こうだから、こうなるよ」という状態を、ある意味淡々と述べているわけです。


そしてこの土壌を整えるということが話されましたけれども、この心の土壌というのは、環境というのは結局、神様が整えて下さらなければ変わりようがないんですね。


ある人がイエス・キリスト様を信じ、受け入れるという時に、神様の働きが全くなくて、その人がある日気がついて、イエス様を信じます、そして救われますということはないのです。


ですから、神様がその人の心の状態を整えて下さらなければ、変えて下さらなければ、人がイエス様を信ずるということはあり得ないのです。


そういう意味では人が救われるのは神様の奇跡であるのですね。



たとえば、クリスチャンホームで育った子供は、幼い頃からみことばをシャワーのように浴びてきたわけです。


好むと好まざるとに関わらず、みことばを聴いてきたわけです。


そういう意味ではみことばの種が、嫌というほど投げつけられてきたといってもいいでしょうね。


教会にも行ってました。みことばも聴いてました。

賛美歌も歌いました。

暗唱も少しはできました。

伝道にも行ってました。


そして教会の人たちからは、よくできたクリスチャンの家庭の子供であると見られていたかもしれません。


でも実際は永遠の地獄に向かっている失われた羊であることが現実にあるわけです。



神様がその人を変えてくださって心の土壌というものを整えて下さらなければ、みことばがその人の中に入るということがおこらないのです。


ですからみことばをシャワーのように浴びていても、それだけでは人は変えられないのです。


神様がその人の心を変えて下さらなければならないのです。



さて、今回の種まきの話というのは広い意味において救われているクリスチャンのみことばに対する態度にも適用できるのではないでしょうか?



最初の「路の傍ら」の状態、それはある意味頑固な不従順なクリスチャンを表しているのかも知れません。


確かにイエス・キリスト様を信じて救われているかも知れません。

永遠の命を頂いているかも知れません。

ですが、それ以上もうみことばを受け入れ、従って、直して、改善してという態度が見られない、頑固な不従順なクリスチャンであるといえるかも知れません。



あるいはこの礎地に落ちた種、その状態、その人はもしかすると不安定なクリスチャンであるかもしれません。


みことばを聴いて、教えられて、感動して、そういうときもあれば、みことばを聴いても反応がない、ここでいう根がない…。


ですからそれは「バッテリー」と「コンセント」の違いだと思いますが、ある方は日曜日に教会に来て、日曜日に一週間分充電して、残りの6日間を過ごそうとするクリスチャンもいるかもしれません。


ですから、教会に来るときだけは聖書を持って、聖書を開くのですが、残りの6日間はみことばに触れない。

それでは根がないクリスチャンになる可能性は充分あります。


わたしたちは、人として生きて行く上で、栄養補給、水分補給をいつもしていかなければいけないのと同じように、みことばを常に補給していかなければなりません。


あるいはこの礎地の人の状態というのは、喜んで受けるときはあるけれども、そうでないときもあるわけです。


もしかしたら、それは好き嫌いの多いクリスチャンであるかもしれません。


神様は、私達にみことばという霊的食べ物をお与えになるときに、個人の好き嫌いをお許しにはなりません。

時には飲みたくないような苦い薬のようなみことばも飲みなさいと言われます。


聞きたくないメッセージも聞きなさい、それに正しく応答しなさいと言われます。


誰でもそうですが、何か励まされるようなメッセージのほうが私達は好むと思います。


神様の愛とか、神様によって与えられる平安とか、そして最後に何か涙の一つも出るような感動的なお話がされて、聞かされて、涙とともに最後の賛美歌を歌って終われる、そういったメッセージを好むかもしれません。


同じ泣くにも、罪のことが指摘されて刀でズタズタにされるように、それで泣くというのは皆好まないと思います。


しかしながら、みことばというのは、私達の好き嫌いに応じてというわけにはまいりません。



三つ目に、この茨の中というのがありました。


それは、クリスチャンとして言うならば、救われているということの効果が現れていることが乏しいクリスチャンと言えるでしょうね。


確かに信仰生活というのはあるかもしれません。


ですけれども、見えるところ、世の中のことでふさがれている、神様のための時間がない、そういうことであるとするなら、問題です。



そして最後に良き地ですけれども、それをクリスチャン生活の中に当てはめるとするなら、謙虚で、そして従順にみことばを受け、継続的に成長していく…。


その人の証しは祝されますね。


その人の模範は大きな影響力を兄弟姉妹に、また地域に、人々の間で現していくことができます。


皆さんは、どういう心の状態を持っておられるでしょうか?

私には通常知ることができません。


神様との間で照らしていただく必要があります。


しかしながら私たちが成長を望むのであれば、神様のお役に立ちたいと思うのであれば、そしてそれが神様が本当に喜んでくださることであると認識するのであれば、この良き地である事を望むはずです。


また、それを神様に求めるべきではないでしょうか?




感謝します。


アーメン。



◆クイズ◆


① 4節の「鳥」とは誰のことをあらわしていますか?


② 11節の「外の者」とは誰のことでしょう?


③ 13節の「まく者」とは誰でしょう?