聖書の中には、いろんなたとえ話が語られていますよね。


それぞれ好きなたとえ話があると思いますが、聖書を読まれる方のほとんどが知っている「種まきのたとえ」から今回は考えてみました。


マルコ4:1-20の教えですが、この箇所の並行記事がマタイ伝13章、ルカ伝8章に出てきますね。


このマルコ伝4章において、マルコは4つのたとえ話を記しています。



今回は、「みことばにふさわしい心の土壌」という題で話され、考えていきました。



マルコ4章1節を見てみますと、イエス・キリスト様が地上での働きを継続されていきます。


ここでは海辺で教えをしていかれるのですが、そこでいつものように多くの郡集が集まってきて、その中でイエス様はご自分が船に乗って、湖の上から人々に語りかける、そういう方式でもって教えをされていかれる場面ですね。


2節を見ますと、「たとへにて数多(あまた)の事ををしへ」とあり、ここで記されている以外の物も、たとえによって多くのことを教えられたことがわかりますね。


たとえをもって教えられるということは、ユダヤ教ではよくあることで、いろいろなものを比較したり、あるいは象徴、特に当時の人たちにとって馴染みのある生活に関わる事柄を利用して、霊的な意味のある教えをされてきたようです。


この「たとえ」というのを「天的意味」つまり霊的な意味といわれ、「(天国的)天的意味を持つ地的物語」とも説明されるそうです。



ここで3節でイエス様は「聴け」とおっしゃいました。

聖書の中ではよく「聴け」という命令が出てきますね。


旧約聖書でも、イスラエルの人に対して「イスラエルよ聴け」というように呼びかけられている場面がありますね。


それは、注意深く聴かなければならない事だそうです。

いい加減な態度で聴くことは許されない、注意して聞かなければならないことでした。


ですから、このたとえ話の終わりの9節でもイエス様は言われました。「きく耳ある者は聴くべし」と…。


それは、耳がついているかどうかということを問題としているのではなくて、注意深く聞かなければならない、そしてしかも、結局のところは霊的に生まれ変わっている者、つまり救われている者だけが、み言葉の意味を受け取ることが可能であると言ってます。


ですから、いくら神様、イエス様が「聴きなさい」と言っても受け取るとことができない人が結果的に出てくることが理解できます。



クリスチャンの多くはイエス様を信じ救われた者であります。

霊的に生まれ変わっているはずです。


霊的なことが分かる者とされているはずです。


ですから、聴くべきであるわけですね。



さて、ここで「種まく者」が出てきます。

ここは「種まきのたとえ」と言われています。


聖書の中ではいろんな事が教えられていますが、ここでは種まきをどのように上手にまくかのたとえのようでありますが、重要なポイントは他にもあって、その種をまかれる側、土壌の部分、環境の部分が問題になってきます。



ここで、「播く者」とあります。


播く者は14節で直接的にはイエス様ご自身を言っておられますが、広い意味においては福音を語る者全て、神様からメッセージを頂いてそれを語る者もそこに入ってくると思います。


「種」がみ言葉を表しているのは、もう皆さんすでにご存知ですよね。


もし、種を播く側が本当に問題であるならば、これから見ていくようなまき方というのはあまり上手ではなく、ある見方をするなら適当なまき方、無駄の多いまき方だと思われても仕方がないような記述になってます。


効率的なまき方をするのであれば、このような下手な鉄砲打ちではないのですが、何でもまいていればそのうち芽が出てくるだろうというのではなくて、きちんと植物が育つように、丁寧に種を一つずつまいていくはずです。


しかし、ここでは種をまく側が大きな問題となっているのではなく、まかれる側が問題になっています。



14節で播く者はみ言葉をまくとあります。


つまり、みことばが語られるということですが、並行記事のマタイ伝では「天国のことば」ルカ伝では「神のことば」とあります。


それは神様のからのメッセージ、重要なことばがここで伝えられるということです。


ですから、聴く側、受け取る側、その心の土壌、環境が問題になるんですね。




今回は、聴く側、御言葉を受け取るがわの問題が指摘されて話されました。



そのたとえ話しを見ていく前に10節の途中から13節まで見てみます。


イエス様がたとえ話をされた後で12弟子、イエス様の近くにいた弟子、そして12弟子には入らないけれども近くにいた弟子たちがこのたとえ話しのことについて質問してきました。


11節でイエス様はこう言われました。


「イエス言ひ給ふ『なんぢらには神の国の奥義を興ふれど、外の者には、凡てたとへにて教ふ』」


ここでは奥義という言葉が出てきますね。


福音書では奥義と出てくるのはたぶんここの場面だけだと思いますが、この奥義とはそれまでずっと隠されている事柄、明らかにされていない事柄、そしてある意味神様がふたを開けて、それを示してくださるのでなければ決して人は知りえないこと、それを奥義といいます。


ここで「神の国の奥義」とありますね。


ですから、直接的にはやがてイエス様の全面的なご支配が表される王国と繋がっている話といえるでしょうね。


この奥義というのは信仰ある者のみが、つまりイエスキリスト様を心から信じ受け入れた、新たに生まれ変わった者だけが本当の意味で理解する事柄であります。


イエス様を拒絶する人達、イエス様の福音を拒絶する人たち、つまり11節にある「外の者」というのは、そういう人たちのことをいうのですが、そういう人たちにはなお隠されているという事です。


霊的に生まれ変わっていない人たちが霊的なことを理解することはできないということをパウロも述べています。



12節でイエス様はおっしゃいました


「これ「見るとき見ゆとも認めず、聴くとき聞こゆとも悟らず、翻へりて赦さるる事なからん」為なり』」



これはイザヤ書6:9、10を大まかに引用している部分ですが、ここで確かに見えているんだけれども認識しない、聞いてはいるんだけれどもそれを掴んでいない、理解していない、そして、「翻り」とありますが、翻るとは「悔い改めて」とか「立ち返って」という意味でもつかわれますが、赦されることがない、つまり、みことばが語られても、確かに音声としては聴いているかもわからない、でも、その意味を掴み取ってはいない…。


ですから結果的に、どのように素晴らしいメッセージであっても、それに正しく応答して悔い改める、赦される、救われるというところには至らないというわけなんですね。


ですからこの場面でも、弟子でない者たちへのたとえ話というのは、真実は隠される、そして人々が悔い改める、あるいは許されるということは、結果的には妨げるということになります。


「翻へりて赦されることなからん」とありますね。


イエス様を信じない者、神様から与えられている、示されている真実を受け入れようとしない者は罪に背を向けることを好まないとあります。


ヨハネの福音書にもあります「暗闇の中にいる人は光のほうに来ようとしない」と…。


暗闇の中にいる人は暗闇の中にい続けようとします。

なぜならば、自分の罪の状態を暴露されることを好まないからなんですね。




さて、この弟子達に語られたたとえ話に入っていきますね。


いつものように4つのポイントで考えていきます。



◆ポイント◆


1・「路の傍ら」(道ばた) (4節・15節)-硬い


今回の「種まきのたとえ話」はイエス様がみことばをお語りになること、そしてそのみことばに対して人(の心)がどのように応答するかを説明しています。


最初の人の心の状態(土壌)は「硬い」でした。

人が歩いて踏み固められた道のように、人の心は硬く(がんこ)、みことばを全然受け付けません。


多くの人々が教会に来ない、みことばが書かれたパンフレットを読まないのは、悪魔が後ろでいつも邪魔をしているからです。


鳥がまかれた種を食べてしまうように、みことばが人に届く前に悪魔に持っていかれているのです。



まず、このたとえ話がされて後に15節以降でその解説をイエス様がしてくださるのですが、一番目に、この種がまかれた場所は、「路の傍ら」とあります。それは道ばたですね。

それを4節で「まくとき、路の傍らに落ちし種あり、鳥きたりて啄ばむ。」とあります。


この「路の傍ら」とは、道の端、あぜ道のことをいうのですが、そこは人々がいつも歩く場所ですね。


そこに種がまかれた、あるいはたまたまそこに種が落ちた、種を播く側としてはその土地にまんべんなく種がいきわたるためには、ある意味少し無駄も承知でまかなければいけないと言えるでしょうね。


結果的にこの「路の傍ら」に種が着地するのですが、そこで鳥が登場してきてそれをついばんでしまいます。


この「ついばむ」という言葉は、ただ「食べる」ということ以上に「噛み食らう」とか「食いつくす」というように、もう少し激しい意味を含んでいるそうです。


とにかく、まかれた種が鳥によって奪いさられていくということですね。



では、この状況をイエス様はどのように解説されているでしょうか?


「御言の播かれて路の傍らにありとは斯る人をいふ、即ち聞くとき、直ちにサタン来りて、その播かれたる御言を奪ふなり。」15節


みことばが語られます。

確かに聴いたには聴いた。

接点はあった。

しかしながら直ちにサタンが登場してきて奪ってしまう。

ですからこの4節で出て来た鳥はサタンを表しています。


では、この「路の傍ら」あぜ道は、どういう人を表しているでしょうか?


そこはある意味、人が往来する箇所、踏み固められている場所ですね。


それは、人の常識であったり、世の中の習慣であったり、先祖から伝わっているいろいろ虚しいしきたりであったり、この世の中が認めるところの価値観であったり、そういうもので踏み固められている人とも言えるかもわかりません。


ですから、そこでみことばが語られても、みことばをたとえ聴いたとしても受け付ける余地がないといえるでしょうね。



「いや、それは私には関係ない」「いや、私はこういうやり方をしている」「いや、わたしはこういう価値観を持っている」「いや、私は今までこういう生き方をしてきた」というように、それ以上みことばに耳を傾けるという隙間がない…。


しかもここで状況を悪くしているのは「直ちにサタン来りて」そのまかれた種であるみことばを奪っていく…。

ですから、殆どみことばとの接点はない、あるいはできない状態だと言えるでしょうね。


たとえば私達は、み言葉を語られた、救いの道が語られたパンフレットを配ったりしますが、それを人々が見て「真実と向き合いましょう。」と書かれていても、裏を見て「キリスト教」と分かるとゴミ箱行きになるのが多いでしょうね。まさにその状態。


パンフレットを見ても読もうとしない、あるいは教会で子供の集まりをしますと呼びかけても、教会だからというので親は行かせない。


あるいは家族の人たち、友人、会社の同僚、そういう人達と話をして、これからみことばを語られる、段々いい流れになってきたというときに邪魔が入る…そういう言も多々ありますね。


また基本的に今の社会はとても忙しい社会です。


昔よりは便利になり、時間短縮ができてきたはずです、そうであるなら現代の人は時間が余っているはすです。

なのにもっと忙しくなっているのはどういうことでしょう?


小さいときから勉強やお稽古ごと、大人になれば人との付き合いとか仕事、いろんなことで忙しくなります。


ですから、なかなか教会に誘っても人は来ないのです。


一番大切なみことば、それを語ろうとしても、それを落ち着いてゆっくりそういう話を聞く余裕、時間がなかなか見出せないのが現状です。


また、学校へいけば、基本的にはこの世界は偶然できたものであるという進化論が土台で教育がなされています。


ですから私たちが週に一度みことばを語っても、教会で語られる事柄は作り話であるということになってしまいやすいと言えるでしょう。


悪魔はいろんな形で人々のところにみことばを届かせないように、あるいは届いても奪い去るようにしています。



この一人目の人の状態というのは一言で言うと「硬い」ということです。


もう、みことばを受け付けない、もう硬い状態なのです。

今までの自分の生き方を見直すという余地はないのです。




2・「礎地」(岩地) (5節-6節・16節-17節)-浅い


二番目の人の心の状態は「浅い」でした。


この人は、みことばを聞いて最初はとても喜びます。

でも、その状態は長く続きません。

乗り越えなければならない問題がやってくると、みことばを忘れて前の状態に戻ってしまいます。


みことばの受け止め方が浅いと根がない植物のように「バッテリー切れ」になりそれ以上前へ進むことができなくなります。


ある人々はみことばを聞いてとても喜び、教会にも積極的に来るようになります。

でも、イエス様を信じてみことばに従っていくと、苦労もあることがわかると教会に来なくなります。



さて、二つ目ですけれども、5-6節を見てみます。


「土うすき礎地に落ちし種あり、土深からぬによりて、速やかに萌え出でたれど、日出でてやけ、根なき故に枯る。」5-6節


二つ目は礎地、岩地ですね。


この状態というのは一言で言うと「浅い」ということになります。


5節の続きで「土深からぬによりて」とありますが、それは土壌が浅い。


これは土壌が浅い、つまり土の部分が浅い、そしてすぐ下に岩があるということですが、通常は石灰石であるようですが、全てを掘り起こすには深すぎるし、作物のためには浅すぎるというあまり役に立たない、作物を何か収穫するためには役に立たない場所であることが分かりますね。


ここで「土深からぬによりて」とありますが、浅いことがある意味幸いしてというのでしょうか、確かに速やかに、芽は出るのですが、それ以降が続かないわけですね。


根がないために枯れてしまう。


その解説をイエス様は16節17節でされています。


「同じく播かれて礎地にありとは斯る人をいふ、即ち御言をききて、直ちに喜び受くれども、その中に根なければ、ただ暫し保つのみ、御言のために、患難また迫害にあふ時は、直ちに躓くなり。」


余談ですが、「直ちに」「直ちに」という表現がマルコ伝には多いのが特徴ですね。


この浅い人は、みことばを確かに聴きます。

「直ちに喜び受くれども」とあるように、みことばを聴いて喜ぶのです。

それに感動するわけです。


確かに福音に対して熱狂的に、感情的には相当の反応を示すのですが、それは表面的であるのです。

それが問題なんですね。


福音が語られて「あぁ、神様は私を愛しておられる。」「私を造り、生かし、そして罪人である自分のために救いを用意をされた…イエス様は私のために死なれた…そこまで神様は私を愛してくださった。」と、その愛に感動してイエス様を信ずる…それ自体は何も問題ではないというか、それはあるべき姿、クリスチャンとなっていく上で通るプロセスであると思うのですね。


ここで言われる、喜びうけるというのは重要な部分です。


ただ、17節で、「その中に根なければ」とあります。

確かに、この人は熱狂的に感情的に喜んだんですね。


暫くは良かったんです。

その歩みが順調であるときは良かったのです。


何も問題がないときは良かったのですが、17節で「その中に根なければ」とあるように、それは霊的な意味で言うならば、先ほどの路の傍らの人と同じで、実際のところ心が硬いのです。


表面的には喜んだ、感動した、感激した。

涙の一つも流したのですが、実際のところ心が硬いと言えるのでしょうね。


その感情的な反応というものも、表面的で一時的変化だけであるのです。

その人の歩みが全面的に変えられるというところまでいかないのです。


17節で「ただ暫し保つのみ、御言のために、患難(なやみ)また迫害にあふ時は、直ちに躓くなり。」とあります。


確かにイエス様を信じたはずなのですが、ここでは結果的に救われない人の事を言っているのであろうと思われますが、表向き、イエス様を主と告白して信仰告白があって、教会生活を始めたかには見えた…。

歩みは最初のうちは順調であったかもしれません。


ただ、それでは終わらなかったのですね。


その患難(なやみ)や迫害、というのがやってきます。

しかもそれは「御言のために」とあります。


つまり、クリスチャンというのは神様のみことばを優先させて生きていく人たちであります。


自分の考えではなく、神様のみことばを優先させて生きて行く者たちであります。


ですから、主に頼るか、自分に頼るかというところで、主に頼るところがクリスチャンの選択肢でありますが、そういうテストを受けた場面でつまづいてしまうのですね。


それは結果的には表面的な、いわゆる自称クリスチャンであり、信仰がテストされるときに倒れて退いてしまうのです。


ですからある方は福音が聞かされて、聴いて、感動して「信じます」と言って教会に来ることがあります。


そういう方は熱く盛り上がるのも早いのですが、教会に来なくなるのも早くなる場合もあります。


そのような人は、みことばには好意的ではあるのですが、それは自分が「良い」と思う範囲内において信じようという心があるだけなんですね。


イエス・キリスト様を信じて従っていこうという態度が必ずしもあるわけではありません。


信仰と引き換えに何も犠牲にしたくないという類の人と言えるでしょうね。


つまりそこまでイエス様を信じ受け入れイエス様に従っていくという事は重要とは認識していないということになりますね。



ここで「根がない」とあります。

植物にとって根がないということは致命的なことと言えますよね。


根という部分は通常見えてないというところですけれども、根があるということによって植物は植物として存在するわけです。


そこから必要なものが供給されていないということは、霊的な意味で言いますと信仰者として立ち続けることを阻んでしまいます。


私達は最初にただ一回みことばが聞かされればいいという事ではありません。


常にみことばが、霊的な意味で根から供給されて、力強く、大きく育っていかなければなりません。


ですけれども、この人には根がない…。


つまり供給源とのつながり、結びつきがない、それが断線しているわけですから成長は望めないといえるでしょうね。


ですから、盛り上がるのも早いのですが躓くのも早いということになり、それがこの礎地の状態、浅い人の状態であります。



<次の記事に続きます。>