昨日、私がアップした記事に対してたくさんのご意見を頂き、ありがとうございました。


少し誤解もあるようなので、今回の記事でまとめてみたいと思います。



ここで最初にお話ししておきたいことは、私は「酒を飲むことは罪」だとは思っていません。


「罪を犯す可能性が高い」と申し上げているのです。




前回の記事に対するコメントで「罪を犯す自由も与えられているし、罪を犯さない自由も与えられている」とのご意見をいただきました。



もしかしたら、私の聖書理解がまだまだ足りない事が原因だと思いますが、私はそのように理解していないんですね。


なぜなら、神様から見て人間は、正しい事を行うことができない、罪を犯すことしかできない存在だと思っているからです。


神様の基準から見て、正しい事もできて、罪も犯すこともできるという存在であるなら「罪を犯す自由も与えられている」という理解もあると思うのですが、人間は罪人だから罪しか犯せないのに、どうして「罪を犯す自由がある」と言えるのだろうかと、今でもそれは理解できていません。


再度、罪に対して調べてみますね。



私はあのカルト組織の中で経験した痛手から、「今度、聖書を学ぶときは、絶対に聖書に書かれていないことは信じない」と、かなり頑なになっていた時期があり、聖書の学びをしたときに、牧師に激しく反論したのが、このお酒の問題でした。



牧師から何度も「聖書から見てみましょう。聖書はどのように言ってるか調べてみましょう。」と言われましたが、私の思考からどうしても「イエスが最初に起こした奇跡は、カナの婚礼の席の水をぶどう酒に変えたこと。」「もう水を飲むのは止めて少しのぶどう酒を飲みなさい」と、あのパウロが勧めていること。


イエスもぶどう酒を飲まれた記録があることから、聖書は決してお酒を飲むことを否定していない。

酔わなければいいんだ。適度に飲めばいいんだ。という理解を崩すことができませんでした。



聖書は、お酒に関してどのように私たちに勧めているのかを理解するのは、地獄の存在を理解するより時間が掛かりました。



聖書はお酒を飲むことは禁止していない。

…そうであるなら酔わない程度に飲めばいい…私はそのような理解でしたから、お酒を飲むことを肯定していました。



実際、その論理から「聖書にはたばこを禁じている箇所はありません。」とたばこを吸われるクリスチャンもいますし、牧師もいらっしゃるそうです。


確かにそうですよね…「聖書に書いてないから」と言うだけなら、たばこは吸っていいことになるという結論になってもおかしくありません。



また、「惑溺性はあっても、酒を飲む人が全部が全部アル中になるわけではありません。上手に嗜む程度に飲めばいいのです。それはまた、血液の循環にもいいのです。」という主張と同じように、「惑溺性はあっても、たばこを吸う人が全部が全部肺がんになるわけではありません。一日数本程度のたばこなら、緊張をほぐしたり、疲れを癒したりする効果もあります。」と言われたなら、どのように答えることができるだろうか?と少し考えこむ私がいました。



今まで、「イエスもぶどう酒を飲んだ。イエスが飲んでいるのだから、酒を飲むのは悪いことではない。聖書は認めてる。」という理解でしたが、ここで忘れてはいけないのは、罪を犯しやすい私たち人間と全く罪を犯す可能性がない、罪を犯すことができないイエス…つまり神であり人であるイエス様とは違うということを念頭に置くことだと思いました。



罪を犯すことが全くできないイエスと、罪を犯しやすい私たち人間が同じように酒を飲んでも、イエスと同じ状態を保てるだろうかという事を考えました。



それを考えると、「イエスが飲んだのだから、私たちも同じように飲んでいい」と、自信を持って言えなくなりました。



聖書には、「酒に酔ってはならない」と、はっきり書かれていますが、聖書中でイエスが酒を飲む場面だけを読むと、何らかの習慣として酒を飲むこと自体はいいけれど、「理性を失うほど飲んではならない」と理解しますよね。



ところが、実際は理性が失われない程度にとどめておくのは難しいという人のほうが多いのではないでしょうか。



前回の記事のコメントへの返事でも、何度も言いましたが、「人は弱い」ということ。

あの箱船を作った信仰の人、ノアでさえも飲みすぎて酔いつぶれたという記録が聖書の中にあります。



そういう事を考えると「聖書に書いてない、はっきり禁止されていない事以外は信じない」と思っていた私は、その思考を少し調整する必要があるのかなと感じ、聖書の中で「酒」に関することを、できるだけ拾い出して、総合的に見て判断してみようと思いました。



前回の記事に対するコメントへの返事と重なるところもありますが、ご了承ください。



聖書の中には、お酒を飲む事に関してたくさんの警告があることも分かりました。


たとえば、レビ記10:9、民数記6:3、申命記29:6、士師記13:4,7,14、第一サムエル1:15、箴言20:1 箴言31:4,6、イザヤ5:11.22 イザヤ24:9 イザヤ28:7 イザヤ29:9 イザヤ56:12 ミカ2:11 ルカ1:15と、他にもあるでしょう。


でも、聖書はクリスチャンがお酒を飲むことを決して禁止していません。


聖書には、お酒に関して肯定的な箇所があります。


たとえば、伝道の書9:7では「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。…」とあります。


詩篇104:14-15「主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また人の心を喜ばせるぶどう酒をも。」


他にも、アモス9:14には自分のぶどう園からできたぶどう酒を飲むことは神の祝福のしるしだと書かれています。


イザヤ55:1では「さあ、…ぶどう酒と乳を買え。」と勧めています。



聖書は、お酒に対して警告だけでなく、お酒も勧めていますよね。


それをどのように理解したらいいのでしょうか。



お酒に関して、神様がクリスチャンに命令している事は、「酒に酔ってはいけない」ということであり(エペソ5:18)、聖書は酔っ払うことと、その影響を罪としている事が分かります。(箴言23:29-35)


また、クリスチャンは自分の体をどんなものにも支配されないようにとも命令されています。(第一コリント6:12、第二ペテロ2:19)

この聖句を用いて「聖書はたばこはいけないとは書いてないけど、この聖句からクリスチャンはたばこを避けるべきでしょう。」とよく使われますよね。

「たばこを吸ってはいけない」と明確に書いてはいないけど、この聖句から「たばこを吸うことはふさわしくない」と判断することができますよね。




お酒を飲みすぎると依存症になる可能性がある事は否定できません。

聖書は、クリスチャンが他のクリスチャンを気を悪くさせたり、躓かせたり、その人の良心に反して罪を犯させたりするようなことも禁じています。(第一コリント8:9-13)


このような原則によると、クリスチャンが誰であれ、自分は神の栄光のために酒を飲んでいると言えるかどうか、とても難しいことだと思います。


「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、だだ神の栄光を現すためにしなさい。」第一コリント10:31



イエス様は水をぶどう酒に変えられました。

また、イエス様も時々、ぶどう酒を飲んでいたことが聖書の記述にあります。(ヨハネ2:1-11)


当時は水はあまりきれいではなかったようです。


今のように衛生設備が整っていなかったので、水には多くのバイキンやウィルスや汚染物質が混じっていたのでしょう。


ですから、ぶどう酒を飲むほうが汚染が少なかったので、1世紀の人たちはぶどう酒やぶどうジュースを飲んでいたそうです。


第一テモテ5:23は、パウロがテモテに水を飲むのをやめるようにと言っています。

おそらく、テモテの胃の問題は水のせいだったと思われます。


水を飲む代わりに、ぶどう酒を飲むようにと勧めていますが、当時、ぶどう酒は発酵していましたが、(アルコール分を含んでいる)必ずしも今日、一般的に常用されているぶどう酒のアルコール度数とは違っていたでしょう。

現在のような製造技術もありませんから、かなり度数の低いお酒だったと思いますが、それはただのぶどうジュースだったというのも間違っています。


でも、今日常用されているぶどう酒と同じであったというのも間違っていると思います。



聖書はクリスチャンがお酒を飲むことを決して禁じてはいません。


お酒そのものは罪で汚れているのではありません。


クリスチャンが絶対に避けるべきことは、酒に酔うことと、酒に依存するようになることです。


「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」エペソ5:18


「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」第一コリント6:12



お酒を少しの量を飲むことは害にもならないし、依存症にもなりませんし、急性アルコール中毒にもなりません。


昔から、酒は百薬の長という言葉もあるように、健康にいいと言われています。


実際、心臓のためにワインを飲むことを勧めている医者もいます。


お酒を飲むことはクリスチャンの自由の問題です。


酒に酔うことと依存する事が罪なのです。



しかし、お酒を飲むことの影響についての聖書の警告、大量に飲む事になる誘惑、他の人を躓かせる可能性などを考えると、クリスチャンは完全にお酒を避けるのが賢明ではないだろうかと思うのです。



また、飲酒はサタンに付け入る隙を与え、神様への賛美の喜びを奪うことになりかねないことも気づきました。


酒を飲むことで、自分では酔っていないと思っていても、何らかの体の変化はあるでしょう。

自分では気づいていないけれど、気持ちや思考にも変化があると思います。


酒の勢いを借りて口論や争いや性的不品行も招きやすくなると思います。


たくさんの危険が潜んでいます。


また、クリスチャンにとって、お酒を飲むことで信仰生活の妨げになる危険もあるでしょう。

クリスチャンは自発的に自主的に、お酒の常習や酒に酔うことを避けるように心がけなければいけないと思います。



厳しい自己管理と自分への戒めが必要ですが、それが難しいというくらいなら、きっぱり酒は飲まないほうがいいと教えている教会も牧師もいます。



お酒とたばこについては、律法のように「決まりだからやめる」という表面的な考え方ではなく、「それをやり続けていると、与えられた体をどれほど傷つけていることになるだろうか?人にどのような影響を与えるだろうか?自分は理性と自己管理を保てる強い人間なのだろうか?」と考えて、それぞれの良心で決定されればいいと思います。


ただ、神様を賛美し祈ることにあふれた生活をしていれば、自然とお酒を飲む必要も感じなくなると私の経験から言えるのですが…。




最後に、私は自分が清廉潔白な人間だとは思っていません。


クリスチャンといえども、いまだに罪の性質を持っており、罪を犯す人間です。


だからこそイエス・キリストの贖いが必要なのではないでしょうか。


イエス・キリストの贖いは、私たちの過去の罪を消してくださいました。

また、イエス・キリストの贖いは、私たちがこれから犯す罪も、悔いて改めるなら許していただけるのです。


だれひとり、イエス・キリストの贖いを必要としない人間はいません。私もその一人です。


私は自分の弱さや無力さを知っています。

どんな誘惑に対しても「自分は大丈夫」とは思えないのです。


だからこそキリストに頼ってしか生きていけないのです。