朝いつものように薬局へ出勤すると事務のAさんが目薬をさしていました。
私は気にも止めず、淡々と白衣に着替えていましたが、薬局長さんが、
「あれ?どうしたの?目薬なんかして」
とAさんに声をかけました。
「ものもらいができちゃって。いろんなことがあり過ぎて弱っているのかな」
と彼女は苦笑いしました。
ここでいつもの私(おっせかいおばさん)なら、このやりとりに割って入って、何かしら求められてもいないアドバイスを言いまくっていただろうと思うのですが、なぜかこの時はスルーしました。
いつもと違う反応の自分に、
『えっ、何にも言わないんだ私…』
と小さな声がしました。
するとその瞬間、
『これもまた、ただ起きているだけ』
という声がして、一気に肩の力が抜けるのがわかりました.
何年も『私』をやってきたのに、『自我の声』にはもれなく『肩に力が入る』(緊張)ということがセットだったとこの時はじめて気づきました。
そういえば最近、わざわざ『聖霊』という言葉を使って赦すというやり方をあまりしないことにも気づきました。
聖霊を忘れているということではなく、『聖霊』という言葉を使う前に、身体に気づけばもれなく赦しが起こるという感じでしょうか。
さて、話しは戻りますが、
私が受付にいるAさんを何気なく見たとき時のこと。
「あれ?今日はメガネなんだね」
と思わず声をかけました。
(目薬の時はスルーしたのにね。)
彼女は普段コンタクトレンズなのですが、メガネがとても良く似合っていて、いいなと思いました。
A さんは、
「ものもらいができちゃって」
と言いながら、右眼の辺りを指差し、
「これでも少しマシになったんですけど」
と言いました。
見ると右まぶたが異様に腫れています。
でも私はまたそれをスルーして、彼女を全く新しい目で見たという感動で、ただ静かに佇んでいました。
ところが彼女の方は、一瞬の間でさえ急いで埋めるかのように、立て板に水の如く早口でなんだかんだ話し続けています。
その様子に私は自分自身を見たように思いました。
『私ってこういう感じなんだ•••』
(コースによれば、この世界は自分(自我)の投影で出来ているということなので、誰の中にも自分を見るというのは、コース的には自然なことです。)
そして彼女の話によれば、確かにいろいろなことが次から次へと起きているし、彼女自身の体調もよくないということもわかりました。
めまい、頭痛、肩こり、不眠はあって当たり前らしいので、たぶん彼女も私と同様に更年期の自立神経失調状態なのでしょう。
それについて彼女は、
「我慢できるし、自分で何とかできる!」
と頑なに言い張っていました。
彼女がそう思う気持ち、本当によくわかるなぁと思いました。
まさについ最近までの自分自身を見ているようだと思ったからです。
私も『体調がよくないけれど、我慢できる程度だし、取るに足らないことだから、とにかく自分で何とかしなくちゃ!』と思い込んでいました。
(この時はこういう思い込みがあったことすら気づいていませんでしたが。)
でも、いよいよ自分の間違いを認めざる得ない状況となり(これ恩寵です)、聖霊に助けを求める以外の選択肢がなくなりました。
そもそも赦し以外の選択肢があると思っていたこと自体、間違いだったのです。
そして、しぶしぶ聖霊に従った結果、なにもかもが一気によくなりました。
身体の不快な症状から解放され、世界の見え方がガラリと変わりました。
そして、以前の自分がどれだけ酷い状況や心身の不調状態にあったのかを、そうではなくなったことで知ることができました。
T-22.序.1:1
かくも長きにわたり、隷属状態にあったあなた自身を哀れみなさい。
T-22.Ⅱ.7:8
天国を選ぶまでは、あなたは確かに地獄と不幸の中に居る。
単に体調がよくなったということだけではなく、何かがすっかりそれまでとは変わってしまった、という感じさえしています。
『この感じ』を言葉で説明しようとすると、それは一応説明出来なくもないのですが、残念ながら『この感じ』がすっかり違ったものになるので、これ以上の言語化は控えたいと思います。以上です。
追記:
このブログは1ヶ月程前に一度公開したものを加筆修正したものです。
後日談ですが、
今は『聖霊』という言葉を大いに使って、赦しまくりの日々を送っています 笑
今回登場のAさんは、その後も仕事の合間に、いろいろお話しする機会があり、つい最近では、
「おかげさまでだいぶ楽になりました。こんな風に(お薬の)相談が出来るので、ここで働いていて本当に良かったと思っています。ありがとうございます」
と言ってくれました。
実はAさんの状況はあまり変わっていませんが、彼女自身はだいぶ元気になったとのことなので、私も安心しています。よかった〜♪