ある朝、出勤すると、早々にパート薬剤師Aさんから、

「この打ち出した紙っているの?」

と言われました。
その数枚の紙を見てみるとネットで何かを検索した結果をプリントアウトしたものでしたが、私にはわかりません。

「私には判断できないので、薬局長さんに聞いて下さい」

とお返事しました。
にも関わらず、彼女はずっと言い続けています。

「こういうのをいちいち取っておくと書類がすぐに溜まっちゃうんだよね!」

ええ、彼女のおっしゃる通りです。
でも、言う相手を間違っています。
この紙をプリントアウトしたのは私ではないし、書類をよく溜め込むのも私ではないからです。
Aさんは本来言うべき相手がそこに居ないにも関わらず、全く関係のない私に向かって、何とかしろと言っているのです。

「ほら、ここにまた書類がこんなに溜まっているでしょう⁈ これ、あっちに持っていけばいいのよね」

と彼女はずっと言い続けていました。

「私にそう言われても私がしたことではないので本当に困るんです。薬局長さんに言って下さい」

私は同じことをくり返すしかありません。

それからしばらくして、その場に薬局長さんが来ましたが、Aさんは人が変わったようにおとなしくなり、結局、彼女は薬局長さんには何も言いませんでした。

『おかしいじゃないか!言うべき相手が今、目の前に現れたのだから、今こそ、さっきまで私に言っていたことを言いなさいよ〜!』⭐︎

と私の心の中で自我の声がガンガン響いています。

余りの動揺に『あっ、これは自我だわ』とさすがに気がつきました。
そして、そう気づいた途端、『言うべき相手に言わないのは、この私も同じだわ』という声がしました。
今、まさにこの瞬間、私はAさんに向かって、上記『』⭐︎の部分について言えずにいたからです。

「言うべき人に言わない」のは、その人との関係を悪化させたくないとか、表面的な問題を温存しておきたいとか、そういう自我の欲求なのかもしれません。
目の前の不愉快な状況(問題)を本気で解決したい訳ではなく、恐らく相手を責めたいという気持ちもあるので、それを言うべき相手に向かって言おうものなら関係が悪化する危険があります。
そんな危険は冒したくないけれど、責めたい気持ちは抑えきれないので、結果、言いたいことを言うべき相手以外の誰かに言って、一時的なガス抜きをしているだけなのかもしれません。
つまり、このAさんは私に単に愚痴っていただけなのかも…。

T-12.Ⅰ.3:3-4
愛ある想念はどれもみな真実である。それ以外のすべては、どのような形をとるにせよ、癒しと助けを求める懇請である。

Aさんの愚痴は、癒しと助けを求める懇請なのです。
なので、聖霊に『Aさんに癒しと助けをお与え下さい』とお願いして、自分でなんとかしようという欲求を手放しました。

そして、この「言うべき相手に言わない」ことについて、聖霊と一緒に見てみました。

「言うべき相手に言わない」のは、言ってしまうと目の前の表面的な問題がすぐに解決してしまい、本当の問題は別なところにあるということに気づいてしまうから、それを避けるための自我の防衛反応ではないかと思いました。
しかも、その本当の問題の方はすでに解決されているとコースには書かれています。
自我にとっては堪ったもんじゃありません。
つまり問題なんてものは端からなかった訳で、問題というのは自我の捏造なのです。
問題のない世界なんて、もう世界とは呼べません。
それは天国です 笑
(あれ⁈ やっぱり天国にいたのね 笑)

W−pI.79.1:4
分離という問題がただ一つの問題であり、それはすでに解決されている。

W−pI.79.6:2
問題がどのような形で現れようと、自分には分離という問題しかないということが認識できたなら、その答えの妥当性がわかるので、それを受け入れることができる。

という訳で、この朝の出来事は私の捏造でした。
私の内にある「言うべき相手に言わない」ということをAさんに投影していたのです。
投影に気づいた瞬間、幻想にとどまり続ける(自我の目的)のではなく、幻想から目覚める(聖霊の目的)方を選び直すことができました。(赦し)

このことがあって以来、行動面では「言うべき相手に言わない」ということによく気づくようになり、その度に赦しています。
実際に言うも言わないもその時その時ですが(起こるに任せている)、どっちにせよ、モヤモヤ(動揺)はなくなったので、おかげで平安な日々を過ごすことができています。

こうなると本当に兄弟には心から感謝しかありません。
兄弟なしに私は自分の罪悪感をみることはできないし、自分自身を赦すこともできないからです。
最初は出来事を自我で解釈しますが、このモヤモヤ(動揺)のおかげで、赦す(聖霊を選び直す)ことができます。

T-6.Ⅳ.1:2
自我は常に先に語る。

T-6.Ⅳ.3:2 
聖霊は先に語ることはしないが、常に答える。

自我は常に最初に語り、聖霊は自我を訂正するだけのために語ります。
なので、自我をみることこそがまさにやるべきことです。
「また自我を選んじゃったわ」なんてがっかりせずに、「また自我を見つけちゃったわ」と喜んで、見つけた自我をどんどん聖霊に差し出しちゃいましょう。
結果、内側が静まり、平安が達成されるので、ありがたいばかりです♪

感謝、感謝♡