自責:仕事してない人は存在価値ないという自己ジャッジと罪悪感 | エネルギーまわそう自分を生きよう EMBRACING

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一度ブログを書かなくなると「ブログを書かない」という習慣ができて

その習慣を正当化する為に色々な言い訳をしてブログを書かないという習慣を継続する癖が脳にはあるらしい。

 

それを変えるのにゆうに2週間はかかったけれど、内容はともかくなにか書くという事に重きを置いて書き出してみることにします。

 

去年の秋口ぐらいからアンソニーロビンスの本を読みながら自分という存在の探求を始めたのですが、
たくさんの発見がありました。

 

原語で読みながら日本語訳された本も読み始めてみたものの、翻訳している人が嫌いというか文章が嫌いで全然頭に入ってこない事。
罪悪感とはかけ離れた存在だと思っていたけれど、今は罪悪感に苛まれる事もしばしばだという事。

自分を責める言葉を頭の中で言っていた事。

他人の幸せが大切で自分の幸せは大切ではないという事がベースでの行動が見受けられる事。

ジャッジが強い事。

こだわりが強い事。

ADHDやASDの特性を少し持っている事(診断を受けたりはしていません)。

何をするにも気力、体力がものをいう事。

自分の行動の癖や思考の癖を書き出すと、今何をしているのか客観的に見れる可能性が高まる事。

 

要は自分用の自分の取扱説明書を作っている、といったところです。

これが整理されると、自分のしたい事を自分にさせてあげられる率が上がってすごく楽しくなる事を知っているので

時に辛い気持ち、認めたくない気持ち、みなかった事にしたい気持ち、逃げ出したい気持ちになりながらも

少しずつ毎日発見を続けています。

 

 

 

では、今日の本題。

 

 

私は今仕事をしていません。無職です。結婚していて、夫は仕事に出ているので家事の90%は私がしています。

そして海外に住んでいるので語学の授業も週に3コマ、計6時間受けています。その他にも宿題や自主的な勉強、読書をしたり

、夫婦の話し合いの日程決め、まとめ、日々の振り返り、滞在の為の事務手続き、情報収集などをして日々を過ごしています。

 

そして、かなり時間的には多忙なのですが、仕事をして収入を得ていない事にすごーく劣等感があります。

生活には困っていないのですが、私の稼いだお金で他の人の喜びになることをしたり、自分を喜ばせることがしたい、でもできていないという事に大きなストレスも感じています。

夫は「(私)が日々楽しい状態でいてくれるのが一番だから、仕事はしてもしていなくてもいいよ」と言ってくれています。

先日、「でも(私)を見ていると、少し仕事している時の方が幸せそうだってのはわかる」とも言っていました。

 

そして、こんなにストレスを感じているのに、間違った職について体を壊したり、向いていてしたい仕事に二の足を踏んでいるのかと考えたところ、大きなジャッジを見つけました。

 

 

 

それは、「働かざるもの食うべからず」でした。

 

 

 

つまり、働かない奴は食べるな。ということです。

 

 

でも食べないと生きていかれません。

 

 

だから、これが言っているのは、「働かない=生きる資格ない」「仕事してない人は存在価値ない」ってことです。

 

 

そして私もそう思っていました。

 

 

それは 働いていない私は生きる資格がない、と私は私に言っているということ。

 

 

え、つら!

 

 

それは苦しいのも無理ないよな。

 

 

自由にしていいよ、働かなくてもいいよっていくらパートナーが言ってくれていても、

 

 

そんなわけないわ。だっていちゃいけないもん。楽しんじゃいけない。

 

 

って自分につよーーーく思ってるんだから。

 

 

 

あわわわわ。。。。

 

 

 

悲しいよー😢

 

 

一体いつから?なんで?こう思い始めたんだろう。。

 

 

赤ん坊の頃はこんなこと思ってなかったはずだ。

つまりこの考えは私のオリジナルではなくてどこかでインストールされたものだ。


と遡ると、幼い頃の親や大人の言っていることが思い浮かんできました。

 

 

 

そう、これは私のオリジナルではなくて幼い頃大人を完璧だと思っていた私の脳が大人の考えをコピーしたこと。

 

そしてそれが私を苦しめている。

 

 

 

ここで今自分が自分にしているジャッジとその出どころはわかったので、

 

 

 

 

 

私はどうしたいか、生きたいか?に立ちもどる事にしました。(どうしたいか聞くの大事!)

 

 

 

 

私は自他ともに優しくありたいし、慈悲をもっていたい。

 

 

 

 

そして、ジャッジ持っていることで苦しいのは他でもない自分。

 

 

 

ではこれとさようならしていく段階なのだろう。

 

 

「仕事をしていない」というのをまるで継続する確定事項のように、死刑判決のように扱っているけれど、

これは状態であって、状態はたえず変化する。

 

私の状態は

今は仕事をしていない(事実)、である。今は、だ。過去はしていた(事実)。未来は、したい(希望)。今は、していない。

 

 

というただの事実。そこについてる色を剥がしてあげる。

 

 

そして「ここにいること」は死ぬまで変わらない。これも事実。

 

 

だから同じレベルにはないというを事実として受け止める。

 

 

どちらもすごく大事だけど、大事のレベルが違う。

 

 

存在なくなったら、仕事どころではない。だって実体ないんだから(笑)

 

 

肉体を持った実体はこの世を生きる場合の全ての土台。

 

土みたいなもんだ。その上に何かがあるのか、ないのか。

 

あるとしたら草なのか、木なのか花なのか野菜なのか、糞なのか、苔なのか、葉っぱなのか、生き物なのか。

 

ないとしたら、土はどんな土なのか。腐葉土なのか、粘土質なのか、火山岩なのか、砂なのか。

 

そこには沢山の見解や実験、変化が溢れている。

 

でも土がある事、それは変わらない。

 

 

そこを混ぜない。

 

 

ここまで書いても何か釈然としない。

 

 

 

 

ここで、

「仕事してないからいる価値ないですよね。じゃあ毎日死んだようにして自分を責めるんで、あなたは私を責めないで」

「すみません、生きていてすみません。仕事していない私なんかが生きていてすみません」

としている自分にも気づく。

 

これは罪悪感だ。かの有名な罪悪感。

 

 

自責には、

それには、「多すぎるルール(べき思考)と思い込みを手放していく」

「全員が味方じゃないけど、敵でもない」「自分の好きだけでなく嫌いも認めてあげる」

「誰かの為を思う気持ち、優しさや愛情が自分の中にあることを認める」

をしていくと良いみたい。

 

 

↑これを付箋に書いて目に見えるところに貼っておこうと思います。

そして、罪悪感や自責が始まったら意識的に見返してみようと思います。

 

 

 

みんな誰かの喜びになりたい。

 

 

私も、自分の、あなたの、喜びになりたい。

そして、あなたは私の喜びと伝えたい。

 

 

そこに向かって、毎日少しずつ、生きていこうと思います。

 

 

この文を読んでくれたあなたに発見や気づきが見つかったり、楽しみや優しさが広がりますように。