コットンの肌触り

 

コットンの肌触りというか、手触りというか、触った時の温かみが好きだ。

これは女性の下着を集めるのが好きなこととも密接に関係している。

自分だけの不思議な嗜好だ。

 

コットンのパンツが好きだった。

同じパンツでもナイロンのテカテカしたやつには興味がなくて、コットンのものが好きだった。もしデザインや色が好みのナイロン製と、ダサいコットン製があったら、文句なしでコットン製をとる。同じコットンでもできるだけスムーズで、その布地を通して肌のぬくもりが伝わるような薄いもの、とこだわりは続くが、とにかくコットンだった。

同じコットンでも、硬い綿のものはダメだ。ハンカチみたいな生地はダメなのだ。Tシャツのような柔らかいコットンでなければならない。

 

だから、ブラジャーには興味がない。硬いしコットンではないからだ。触っても気持ちよくない。もしパンツみたいな柔らかいコットンのブラがあったら、それは好きかもしれない。

もっと言えば、パンツである必要もないかもしれない。Tシャツでもいい、それを触っているだけで幸せになれる。

 

これはいったいなんなんだろう。

唇を吸ったりする癖があることは前に書いた。赤ちゃんのおしゃぶりみたいなもんで、自分を慰めたりストレスを発散する行動なのだと思う。妹や母親の下着を自分の部屋に持ち込んでいた。下着の肌さわりが好きだった。この異常なコットン好き。しかし、なぜコットンなんかが好きなんだろう。

 

パンツが好きだからコットンが好きになった、という説。

コットンがパンツを連想させるから好きなのだということ。

だがナイロンやサテンのパンツではダメなのだ。

パンツである必要はない。

 

その肌触りにある種のぬくもりを感じるから、という説。

でも同じぬくもりを感じるフリースなどではダメだ。

タオル地にも興味はない。

触っていたいという気持ちにはならない。

 

この違いは何なのか。

そのあたりはわからないが、この「肌触り説」のほうがあたっている気がする。

子供のころ寝るときに一人でさびしいとき、自分のコットンの下着(シャツでもパンツでも)を触りながら寝た。そうするしかなかったのだろう。与えられなかった愛情に変わり、自分の肌着の手触りは、自分を安心させてくれるもの、自分を裏切らないもの、に変わっていったのではないか。

優しくて温かくて柔らかい。その手触りは母親の愛情の代わりだった。

本来それらは母親から与えられる精神的な安心感であるべきもの。

だが与えられない愛情の代わりに、その温かな布切れを必死で握りしめていた。

心の代わりを物に求めたのだ。

 

ここまで書いて泣けてきた。きっとこれがほんとうのことだからだろう。

自分の記憶の奥底がよみがえってきたのかもしれない。

自分は愛されなかったのだ。だからコットンはその代わりだった、というわけだ。