12年前に父が亡くなった時、父の亡骸を見て思った
この人は何を思って死んでいったのだろう。
亡くなる直前、生前散々尻拭いをしてくれた母の名をさん付けで呼び
「○○○ ○○○さん ありがとうございました」
と言ったらしく、最後が後悔でなく、感謝で閉じれてよかったと思った。
父の人生は最後はいろんな問題が散らかったまま
その問題に取り組むことも片付けることもやり切る事無く人生を閉じた。
元気なときに豪語していた豪快なセリフを実行することなく死んでしまった。
ねぇ、お父さん
何を思って死んでいったの?
そして私は父の死を感じて、父の死に向き合い思った事は
私は死ぬときに何を思って死ぬんだろう
何を思って死ぬ=どう生きるか?
どう生きるのかと思ったときに感じた事は後悔しない生き方をしようということだった。
後悔しない生き方とは?
徹底的に自分と向き合うこと。
これは自分を受け入れる恐怖、つまり
自分が隠し持ってきた罪悪感を知ると言う事。
自分の問題を人の問題にすり替えて言い訳ばかりしてきた
自分と向き合わずに逃げてきた。
自分と対峙することだった。
本当はそんなの間違ってると思っても声に出すことができなかった。
自分の弱さや狡さ、保身ばかりの自分。
争いたくないから我慢ばかりしていた
私が我慢しているから、子供はもっと我慢していた。
それでも
ことを動かしたくないから、これでよしとしてきてた。
そういう自分と、さようならをすること。
それが私が思った「後悔のない生き方」
=自分に対しても、人に対しても罪悪感を持たない生き方だった。
ここ数年、日々の忙しさにその時の覚悟はどこへやら
そんな気持ちをすっかり忘れていて過ごしてきたけれど
先日、急にあの当時の気持ちがフラッシュバックしてきた。
自分のずるさや弱さを知ると、人が抱えている罪悪感がよく見える。
何もなかったことのように、記憶を改善したって
沈黙を守ったって罪悪感と言うものは早々に消えるものじゃない。
一生ついて回るものだと思う。
肉体が消えて、肩書きが消えて立場がなくなって、ただの魂になったときに
自分の心の世界と向き合う時間がくるんじゃないかなと思う
心のままに、魂のままに生きていこう
生きていくと言うテクニックに長けた人たちから見たら
きっと、私の生き方は鼻で笑うレベルの生き方であろう
それでもいいのだ
自分と向き合う強さを持った人とだけ付き合えばいい
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