きましたね第2弾


城田憲子の「フィギュアの世界」日本のメダリストのコーチたち~長光歌子編(2)

http://hochi.yomiuri.co.jp/column/shirota/news/20111006-OHT1T00170.htm


moguziの日記

       長年師事する長光コーチ(中)に加え、新たに本田コーチ(左)も高橋をサポート


コーチ生活も20年を過ぎた頃、出会った高橋大輔という「宝」。五輪で、世界選手権で、数々の金字塔を打ち立てたスケーターだが、ここに至る道のりは決して平たんなものではなかった。特に、高校生で日本人初の世界ジュニアチャンピオンとなり、シニアに上がって以降、二人三脚で世界中を旅する苦難の日々は続いた。


◆長光歌子氏・城田対談

城田「そうして先生が出会ったのが、高橋大輔という選手。先生が初めて大ちゃんを見た時の第一印象、覚えてる?」

長光「城田さんもご存じでしょうけど、仙台の長久保先生と佐野先生の所に来ていた彼に会って(99年)、いきなりプログラムを作ることになったんですね。曲はもう決まっていて『ワルソー・コンツェルト』。滑るのは、倉敷から来た13歳の男の子だと。私も大好きな曲だったんですけれど、『そんなの、小さな男の子に無理でしょう? もっと年が若くてもいける曲にしたらどう?』って。でも『これで行きたい』って彼が言うものだから、とりあえずプログラムは作った。そうしたら本当に…びっくりしましたよ。やっぱり持っているものが違った。『こんなに踊るのか!』とすごく驚いたんです」

城田「うん、私も大ちゃんを最初に見た時、『これは大物になるな!』と思った。そういう感覚って、伊藤みどりちゃんの時と同じね。これは絶対ものになるな! って」

長光「私より先に、城田さんが野辺山の合宿か何かで大輔を見つけたんですよ。それですごく彼を認めてくださって、『いいプログラムが必要だから、とりあえず佐野先生の所に行ったら?』と、彼を当時仙台にいた佐野稔先生に送った。でも都合で仙台を離れなきゃいかなかった佐野先生の代わりに、私がプログラムを作った。それが、最初ですね。私も『いい男の子が倉敷にいる』ってうわさを聞いてはいたけれど、仙台に行くまで大輔を見たことはなかったんです」

城田「え、そうだったんだ! 私が良く覚えてるのは、岡山のリンクかな。バッジテストで岡山に行った時、彼のご両親に会ったのね。そこで『よろしくお願いします』と言われて。そう言われても、教えるのは私じゃないから(笑)。どうしようと思っていたら『プログラムを作ってもらったのをきっかけに、時々歌子先生の所に通っています』とお母さんが言うの。『じゃあ、もっと行く回数を増やした方がいいわ。全部、歌子先生に任せるといいわよ』となったのよ」

長光「そうでしたねえ」

城田「でもそこから先、先生も苦労したと思うの…。『あそこに習いに行け』『ここに振付けを見てもらいに行け』って、私の思いで世界中、あちこちに行かされたから(笑)。先生も、必死だったでしょう?」

長光「必死でしたね(笑)。私も最初の頃は海外に何のつてもないコーチでした。浅沼まりちゃんを見るようになってからは、少し外国の先生の所に行ったりもしましたけれど。でもやっぱり大輔に対して、城田さんがいろいろアドバイスしてくれて、そこから画期的に道ができた感じ。ロシアのビクター先生、アメリカのタラソワ先生…。あちこち、本当にあちこちに行くことになりましたよ」

城田「そんな大ちゃんも、最初は倉敷から先生の所に通っていたのよね。いつ頃からほぼ大阪中心で練習できるようになったの?」

長光「ジュニア1年目は、まだ倉敷から通ってました。でもジュニア2年目(01年)は、どうしても全日本ジュニアで優勝させたかったし、その年、ジュニアのGPファァイナルに残れたんです。その時は、4番だったのかな。それで、今年はもしかしたら世界ジュニアに行けるかもしれない、チャンスの年だからしっかり教えたい思って」

城田「それが、ジュニア2年目。みどりちゃんと山田先生の所と一緒ね。先生のおうちに選手を預かって」

長光「うちは子どももいないですし、私と主人と2人だけですから。部屋もまあ小さいけれどあるから、『ここにいたらいいじゃない?』ってことになったんです。それまでは、すごい能力を持っているけれど、週末しか私の所に来れなくて。あとは倉敷に帰って自分で練習してた。そして今でもそうなんですけれど、その頃から本当に、自己評価の低い子でねえ」

城田「自己評価が低い?」

長光「もう、本当に自信のない子なんですよ。『あなたはすごくいいものを持ってるのよ』って言っても、『いや、僕なんか…』って(笑)」

城田「それでも先生と一緒に住むようになって、しっかり練習できるようになったら、初出場の世界ジュニアで優勝したじゃない(02年)。あの本番の強さ! あれはすごい、と思ったわね。そしてジャンプのスピード感、テイクオフとランディングの素晴らしさ! とにかくテイクオフもランディングも速いのよ。さらにその両方のスピードが同じで、ちゃんと弧を描いて跳んでいて、それでいて曲にもパシッ! と合ってた。あの時、私は公式練習から見ていて、『これは行っちゃうよ…』って思ったの」

長光「そうですよね。あの時は私も練習をずっと見ていて、『行けるかな?』と思った。でもロシアにもいい選手がいましたしね。王子様みたいな、すごく上手い子がいたんですよ。でも彼と比べても、やっぱりスケートの本質的なところは、私は大輔の方が好きだな、と思いながら見てたの」

城田「大ちゃんは世界に出しても、スケーティングそのものがみんなと違ってた。きれいにスーっと滑ってたから。あの時のジャンプと、滑り。もう、現地で最初に見た時から、『大ちゃんは行ける!』って思わせてくれたのよね。そこで優勝して、すぐにシニアに上がって。それからまた先生は、さらに苦労するわけだけれど(笑)」

長光「本当に…。良く覚えてるんですけれど、シニアに上がった年、いきなりプルシェンコと一緒の試合に出たんです(02年GPシリーズ、ボフロスト杯。高橋11位)。SPはプルシェンコのすぐ後の滑走順だったのかな。公式練習も彼と一緒でね。そうなるともう、あの人は駄目なんです(笑)。『テレビで見てた、あの偉大なスターが一緒に練習してる…』ってなっちゃう。そんな大輔を見て城田さんがイライラしてたの、私もよく分かりました(笑)。あの頃、世界ジュニアで優勝してからの低迷期が長すぎて…。皆さんに心配かけちゃって。教えてるのがもし違う先生だったら、もっと早くにバンバン上手にしたんだろうな、と思うんですけどね」 

城田「そこから先生と大ちゃんは、世界の色々な先生の所に武者修行に行くわけだけれど。最初は、誰だったかしら?」

長光「アメリカの(リチャード)キャラハン先生の所に行きましたね。それほど長くはお世話にならなかったので、すごく申し訳なかったけれど」

城田「キャラハン先生はジャンプのオーソリティだものね。さらにスケートだって、ずいぶん流れるようにしてくれる。静香ちゃんもキャラハン先生の所に行って、ずいぶんジャンプが高くなったのよね」

長光「キャラハン先生もしばらくたってからお会いした時、喜んでくださいましたよ。『いい選手になったね!』って」

城田「その後、私は『ロシアに行った方がいい』って言ったんだっけ?」

長光「そう、ロシアのビクター先生(クドリャツェフ)。あの当時、エヴァン・ライサチェクもビクター先生にならってましたね」

城田「他にも長野五輪の頃の選手たちを、ずいぶんたくさん教えている。日本にも何度も教えに来てくれて、良くしてくださって、私たちもすごく勉強になったのよ。でも大ちゃんには、合わなかったのよね」

長光「ダブルからジャンプをやり直して教えて下さったんですけれど、大輔は本当にダブルが嫌いなんです。知ってます? 大輔、ジャンプの時、空中で目をつぶってるんですよ」

城田「え、今でも?」

長光「今でも(笑)。だから何回転してるか途中で分からなくなってしまうから、ダブルが苦手なんです。ビクター先生の所では、ダブルにあまりに時間をとられて、なかなかトリプルに行けず…」

城田「大ちゃん、もとからジャンプが素晴らしかったけれど、それをさらに世界チャンピオンの確実なジャンプにするために、けっこうコツコツと、回り道もしてるのね」

長光「でもそのビクター先生の所では、ターンの大切さ、様々なターンやステップの組み合わせ。さらにジャンプ以外にも色々なことを教えていただいたんですよ」

城田「静香ちゃんもそうだけれど、芽が出るまで時間はかかる。でもやっぱり力のある選手は、一人の先生の所に行けば、必ずその先生のいいところを学んでくるのよね」

長光「大輔もロシアに行って頑張ったんですけど…。その年(03~04年シーズン)は8月から全日本選手権まで、ずっとロシアで練習してたんですね。その年の全日本、覚えてらっしゃると思うけれど、散々やった。SPとフリーと2日合わせて、トリプルはフリップを1度降りただけだったんです(笑)」

城田「長野での全日本の時よね?」

長光「そうです。あの全日本が終わったら、またロシアに帰らなくては行けなかったけれど、私も大輔もどうしても帰る気力がわかなくて。で、城田さんに『すみません、もう帰りたくないんです。このまま日本で滑らせてください』って言ったんです」

城田「覚えてる(笑)。先生から電話がかかってきて、『もうロシアにはいられません…』って言われたの」

長光「それで全日本以降は日本で練習して、四大陸でポーンといい成績を出せて、世界選手権に行けたんです」

城田「そうか、あの年は(本田)武史君が四大陸を途中棄権して、世界選手権に出さなかったんだ。武史君の場合、コーチがダグ・リーという外国の先生でしょ? だから私がすごく厳しいことを武史君に要求しても、『どうしてノリコはタケシにそんなに厳しいの? もっと楽しく滑ればいいでしょ』って顔をするんです。でも大輔君の場合は歌子先生だから、私も先生も甘やかさない(笑)。その差が後々、トリノ五輪の頃には出たのかもしれない。やっぱり外国人の先生に習うのもいいけれど、もう一人、日本の先生がいてくれた方がいいわね。外国に行ってしまったら、私たちでは目の届かないところもあるし」

長光「でも不思議な縁でね。そのころライバルだった武史君が、今、本当に大輔を助けてくれてますから」

城田「今は武史君、先生の所のアシスタントコーチをしてるのよね。ちゃんと真面目にやってる?」 

長光「まあ、それはそれは一生懸命やってくれていますよ」

城田「武史くん、本当にすごいジャンパーだったものね。ルッツだって4回転を跳べちゃうような選手だったんだから。そしてロシアから戻ってきた大ちゃんと歌子先生は、次のシーズン…今度はアメリカに行くことになる。今度はステップを磨かなくちゃいけないから、コネチカットのタラソワのところに行け、と(笑)。そうしたら大ちゃんが気持ちいいくらい良く滑るしステップも踏めるから、タラソワが面白がっちゃって。あの年(04~05年シーズン)はプログラム全部をステップ、みたいなのを作っちゃった!」

長光「あれはちょっと難しすぎてね(笑)。だってタラソワのアシスタントでお手本で滑って見せてくれる(エフゲニー)プラトフが、真剣に転ぶんですよ! ふざけてるんじゃなくて、ダンスのオリンピックチャンピオンが本当に転ぶくらい難しいステップなの。それを見てタラソワが怒るんです。『私の作ったステップは、そうじゃない!』って。それでプラトフの方も怒って、向こうに行っちゃう。間にいる私は、『え、どうすればいいの、この状況? 』って(笑)。そのくらい難しいプログラムでした。難しすぎて、SPの方は途中で変えちゃったくらい」

城田「でも、出来上がったのは本当に素晴らしいプログラムだったの。最初に見た時、鳥肌がぼわっと立つくらいだったわよ。あんなの私、初めて見た。後にも先にもあんな素晴らしいステップはない! そう思えるようなのが出来る選手に、もうトリノ五輪の1年前には、なっていたのよね」(続く)


(2011年10月6日16時33分 スポーツ報知)