近年、嫌なシャワ(世の中)になったものであると、感じつつあるのではあるが…。ホント、へつらい・忖度ばかりで世は動いているのかと思う次第です。(大手報道の姿勢や鹿児島県警のネットメディア捜索などを耳にしてると…)


調べ物をしていて、こんな表を見てしまった。
石川県の「令和5年度新設住宅着工数」。
能登地震について、依然として震災直後のままが続くと、(ほんの少しだけ)伝えられるが、なんのことはない…この表は能登地方は加賀地方と比較して桁違いの少ない着工数を報告している。
地震の復興からではなく、その前から能登は放って置かれていた様子が窺い見えてしまうのだ。活気が見られないのだ。



言葉を換えれば、『ママコ(継子)が災難にあっただけ』
と想っていたんでは?とさえ言いたくなってくる。

ここには仮設住宅はどうなるのだろうか?
1〜3月も小さな数字が並んだまま。

こんなニュースを見ていると、能登を上手に利用してるなぁ〜と想ってしまう。「想いをはせた」と言いながら、加賀(前田100万石)を誇示してる。ホントに想いがはされていたら、かかる予算は能登へ回そうとならないだろうか。

はてさて、
大きすぎるのではとさえ、考え始めるのだ。

岐阜で言えば、南の美濃地方と北の飛騨地方はやはり違う気がする。石川も加賀と能登は人の考えに違いを感じる。
全国一律にしようとした明治。明治は大国主義で一時富山も金沢県にさせられた。江戸期を潜った富山は、「堪忍してくれ!」だったろう。

今、『名こそ武士』と言う本を読み始めたが、富山藩は加賀藩からの独立を考え、9代藩主時代も飛騨と越中の統合を幕府に働きかけていたようだ。結果、宗家加賀藩に漏れ、その画策は潰れた。『迷子石』は10代〜12代の頃の話だ。惣吉のような密偵が遣わされていたのもうなづける。監視していたのだ。

逆に言えば、『迷子石』では江戸家老の富田兵部と側妻の毎木との謀のように描かれるが、その前から加賀藩からの独立への方策を飛騨併合の形で富山藩の中には流れていたようだ。富田はそれに乗って江戸で働いたということになる。

正直、私の現役時代の経験からは、加賀にはたかられるという印象を持ってしまった。

加賀と一緒だったのが、先の表のような結果になっているのではないだろうか。とにかく集める土地柄なのだ、加賀は。

強そうな相手にすがっていると、そうなるのかも。
フト、米にすがるどこかの島国を思い出した。

能登は明日のこの島々の姿なのかも…