「人権」

実はこの言葉、あまり“しっくり”こない。


今日、あまり「人権」「人権」と連呼される人がいて、思わず口を挟んでしまった。

もちろん、彼女が言おうとしたことには賛同しているので、真っ向、否定ではないのだが…


私には、人権って誰かから与えられた感があるのです。

つまりは神。西洋では「人権天賦説」として、神から授けられたものとその根拠を示している。

だからこそ、人の確固たる権利だと。


たぶん、これがしっくりこない大元のように想う。

なにか貰ったプレゼントのような…


私達の世界は神から与えられるという…、もっと言えば神が創造主と言う感覚はあまり無いのではないだろうか。


お天道さまは見守り続けるだけなのだ。

加えて言えば、「絶対者」ではない。


カウンセリングと言う語のように、何か借りもの感(貰い物感)が「人権」という言葉からは感じてしまうのです。結果、軽いと言うか、滑るというか。




私は彼女に思わず言ってしまった。


「我・汝」じゃないかなぁ…。


世界には「我・それ」の関係と「我・汝」の関係しかないと想う。世の中の様々な問題は「我・それ」の関係で成り立っているのが実際。

そんな中で「人権」をかざすより「我・汝」…つまりは「あなた」と呼びかける関係だと、解きほぐせる方向に向かうのではないだろうか。


「あなた」とは、私の目の向かう存在のこと。そこに居る未知の存在。そんな存在との対話を「我・汝」の関係と名付けるのだ。


未知とつながろうとする衝動がそこには在り、未知を受け容れようとする言葉が「あなた(汝)」と言う呼びかけ言葉なのだ。それは「我・それ」の「それ」とは根源的に異なる。「それ」は既知であり、コントロール対象と成りうる。


世は、まさにコントロール可能であると、そう想われている。それは言葉を換えれば「支配」と言う言葉になるのだろう。


言ってみれば、創造主のプレゼントも創造主の支配の中だからこそプレゼントが存在するのではと、穿ってみたり…


「我・それ」「我・汝」とはユダヤ教のマルチン・ブーバーの言い出した基本概念だ。彼はこの2つの言葉の持つ関係が世界を根源的に分けているという。


それをロジャーズは人と人との関係に持ち込んだ。私とあなたは、違い、分からない。だからこそ、向き合い、問いかけ、わかろうとする関係なのだと。


この関係は、プレゼントではなく、私のわかりたいと言う主体的な働きなのだ。


確かに私が生まれた瞬間から、私という殻の中しか分からない存在。その後、様々な体験を通して、少しづつ殻の外の世界を知っていく。ただ、それさえも殻の中でこうだろうと再構成しているだけなのだ。つまりは分からない…。


権利を言い出すと、繋がらない感じ?それぞれが主張ばかりでバラバラなままの感じがするのです。なにかそれは違う…私には浅い感じがするのです。借り物と言うか。


なにか、うまく言葉にできないのが悔しいのですが…

「山川草木悉皆成仏」の言葉を生み出したこの島々の人々の言葉のほうが“しっくり”来るのです。



その殻の中の私と、別の殻の中の私(私からは「あなた」)とが出会ったとき…

そのつながろうとする時の蠢きがカウンセリングなのではとロジャーズは考え、それをエンカウンターグループで実践しようとしたように思えるのです。


殻の中の私と別の殻の中の私とに比較なんて、元々無いのだし、平等という言葉さえホントは必要ないのだと思うのです。全て同質というか比較不可能なのです。


比較が在る事自体、「我・それ」の世界の現れなのではと。



参考


山川草木悉皆成仏↓
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