正直、小学校の頃は体育の時間が苦手だった。
スポーツより本を読むのが好きな子だった。
中学時代、バレーボール部に入り、高校時代には、陸上競技部に入った。
なんでそんな事になったか?
自分でもよくわからない。
ただ、やっているうちに…少しづつ繰り返し、重ねていくうちに、神経回路が育っていくような気がしする。それが少しづつ自信になっていき、自分がホントは何者かを探って行こうとしたのかもしれない。
バレーボールから陸上競技に転向したのは、高校にバレーボール部が無かったのと、中学時代校内マラソンなどで、自分がなんか速いんだということを感じてしまったのだ。
高校はもともと女子高校であり、男子の肩身は狭い。狭い体育館は女子のバレーボールとバスケットボールに占領されていた。男子は、野球部かボート部またはハンドボール。でなければ陸上競技。そんな選択の狭さは、それで良かったような気がする。
まぁ、偶然みたいな形で陸上競技をやりだしたのだが、2年の中頃からは学校内では中・長距離で私の先を行くものはいなかった。先輩にも同期にも負ける気はしなかった。というか、最後には抜けることがわかった。
県内では記録的には6位以内には入っていたろう。ただ、ゴール近くになると何故か力が入らなくなってくる。ゴール前50mで何人かに抜かれ7位でゴールが続く。先生から叱られた。6位と7位は全く意味が違うんだ!と
後一周となると何位か見えてくる。インターハイに行けると想う。同時にお金どうしようも湧いてくる。頭の中はその2つの想いが葛藤していたように想う。今日の県の陸上競技場への汽車賃も予定外出費だったのに…。
県外へ行ってみたいのも、もちろんある。
仲間の一人が改札で捕まった。
彼女は猪谷から八尾への6ヶ月定期で通学していたが、競技場最寄りの西富山駅で捕まった。すると6ヶ月全ての期間、西富山まで乗っていたと判断され、何十万円も払わされることになった。私等もどうすることもできず彼女は泣くしかなかった。
そうなのだ、陸上競技はもっともお金がかからないと思った。かかる経費はズック代だけだ。
いつもズックで試合に出ていたからなのか…
3年生が卒業する際、スパイクを私に残してくれた。以降、2年間それを大切に使わせてもらった。山崎さん。
私の中では、走ると言えば東京オリンピックで裸足で走る「アベベ」の姿が起想され、足元には無頓着だった…が、
僕が負けなくなったのは、山崎さんのスパイクを履きだしてからのように思う。不思議なことに山崎さんの妹さんとともに同じ会社に入社した。進学校から就職する者は少なく、山崎さんと私、それともう一人同じ会社に入った。(スパイクをくれた山崎先輩は給料の支給される大学(気象大学校)へ進学された。)
私等の頃のスポーツは、今思い起こされるスポーツとは違うのではないだろうか。もっとひたむきな、もっと汗臭い…日陰でうごめくもの。(陸上競技だったから、そう定着してしまったのかもなのだが…)
そう言えば、野球は花形だった。野球部員は象牙の塔のように雁航体制で廊下の中央を歩いていた。加えて狭いグランドでトラックの2コーナー目は二塁ベースのすぐ横を走る。硬球がバンバン…こちらを狙っているかのように打ち込まれてくる。
何故か、(いつしかか?)
野球をやっていたという人は苦手になった。
あの廊下の真ん中を歩む姿、カーンと言う硬球の音が付きまとってしまうのだ。
卒業後、スポーツから離れ、アマチュア劇団に入った。
今思うと、私はなんだろうの新たな挑戦だったような気がする。
ホントはスポーツとは…を書こうとはじめたのだが、私と、スポーツになってしまった。
余談
高校駅伝の時、1区を受け持った。
1区は10km区間で花形。各校トップを持ってくる。
大会の順位はこの区間で大体決まってしまってた。
結果、二区の者へ5番目でタスキを渡した。
あれが私の実力なんだろう。
当時の県内高校では5番目…。
(タスキを渡した後すぐに集落の人の車に乗り込む。そのまま大沢野町の町内駅伝に走るため。町内駅伝で一番長いのはアンカー。そこを走るためだ。そこは区間賞を貰ってた。)