田植えはだいたい、終わりが見えてきた。

私の管理地6枚の内、5枚は終わった。

内4枚は除草剤も撒き終えた。


で、

平湯温泉へ行ってきた。


45.1℃。

なかなか厳しく良い感じだ。

連休でもないのに外国の人も含め、沢山の人が来ていた。


外で涼んで、冷えて来たら入る。

4回も入ってしまった。


お風呂のある平湯民俗村隣には平湯神社がある。
昭和55年の白猿神社との併設に合わせ、平湯温泉を名乗るようになったようだ。この温泉は戦国時代に遡る。

武田信玄が越中周りで上杉謙信を攻めようとして安房峠を越えてこの地にやってきた。疲れ傷ついた兵達に白猿が教えたと伝わっている。


だから白猿を神として祠を祀るのはよく分かる。
しかし、名称変更前(S44)までは神明社だったと言う。
なぜ何だろう?と思った。

これは明治6年に作成された斐太後風土記(ひだごふどき)に描かれた平湯の図である。↓

薬師堂の前に温泉施設が描かれ、薬師堂の右手に「神明宮」が描かれている。現在の民俗村は薬師堂と神明宮の間の空白部分にあり、お風呂もそこにある。なんとか昔の関係を残してくれている。平湯の人々の心意気に感謝したい。


しかし、温泉施設の周りは田んぼが描かれているように見える。こんな高地で稲作は可能なのだろうか?(またしても疑問が…)



こんな写真が出てきた。

「稗田」だったようだ。

1,260mの標高…それでも厳しい気候の中、農耕につながるアマテラスを拝みたかったのかもしれない。伊勢の御師達の活躍ぶりが見て取れるのかもしれない。(農耕と言えば稲荷を思い出すが、稲荷はあまりにも水稲過ぎるのか…)


1000mを超える高地、ヒエが命を繋いでくれたのだ。

白猿とアマテラスに祈りを捧げ、この地で頑張ったのだ。


飛騨へ来るとこんな神々に出会う。

白猿の社の横にあった。


「子宝の樹」と名付けられている。

まさしく男根を思い出させるのだ…。


富山への帰り…飛騨市上宝町岩井戸に「夫婦岩神社」がある。


それがこれだ。

鳥居の向こうに見える岩を神の依り代として祀っている。

男根と女陰が並んで、そこに在る。

神を感じたのだろう…。

で、女陰の表れた岩の上に祠を置き、鳥居を建て、お参りできるようになっている。


この島の人々の素朴な神への信仰本来の姿なのかもしれない。明治の風が届かず、胸を撫で下ろせる姿を遺している。きっと「汚らわしい」の一言で壊されるか、引き倒されていただろう。


ちなみに、側にこのような像も建てられていた。


「道祖神」を想い出す。

「夫婦像」とあり、近年の作であろうが…。


飛騨は「宝の山々」である。