「正しさ」や「〜べき」という先…?

それを通そうとする、実現しようとすると、それを通すための力が必要となる。

その具体的な現れが軍備なのだろう。


安倍晋三は「あんな奴ら」と意見の違う者たちを罵った。

彼の中には「正しさ」が揺らぎなくあったのだろう。


案外、それがマズイのと違うんじゃないかなぁ?


「正しい」って、偏狭の言い換えなのかも…

なんて言っちゃって。


考えてみると…

日本の学校教育って、正答に素早く到達する方が「頭良い」ということになる。

「ビジュアルシンカーの脳」と言う本を借りて読んでいるが、この本はこのことに繋がる。


この本は「言葉」で考えることが優勢な社会の中で、そうではない視覚等で考える人々の世界を語っている。

過去の哲学者や思想家の方々は「言葉」優位を説いてきた。

そして、学校では「言葉」が訓練させられる。


「我思う故に我あり」とは、言葉で成り立っている。「思う」は「言葉に出来たもの」のようだ、パスカルさんの中では。

言葉に出来ないことは無いと同じと言っているのである。


人に道を教えてもらう時、言葉はいらないから方向だけ指差して欲しいと僕の何処かは言っている。人に尋ねると「何軒目を右に、ポストがあったら左へ」等言葉で言われる…

それあまり私にはあまりありがたくない。

頭に残らないのだ。

方向だけ指して欲しい…つまり私はどうもビジュアルシンカーだったようだ。こうやってブログを書くのは、何処か訓練のようにさえ感じている部分がある。言葉化への訓練だ。

まぁ、今という時代で生きている以上、仕方のないことだ。


「正しさ」や「〜べき」もまた言葉で作られた世界。

言葉の世界は、それ以外を排除してきたように、語られない世界を排除しているのではないだろうか。


目下、政府は見る見ないを選択して見えたと判断したものだけで政策を決定している。コロナなんてまさしくそうだったし、能登地震や原発事故もそうだ。


言葉で成り立つ世界…

それはそれで怖い。


言葉を通すために力を求めてしまうからだ。

見えたとする一面のために「武力」を渇望してしまうのだ。

そんな気がする。