今日は、立山町の座主坊へ行こうとした。

座主坊は、地名辞典などでは「ざしゅぼう」とふりがなが付られているが、地元では「ざすんぼう」と呼ぶ人が多い。そもそも、そこ出身の人がそう呼んでいた。


かつて話した「瞽女の記憶」の千代が生まれた場所だ。


ただ、栃津から行こうとした道路(県道378)は途中崩壊していて、挫折することとなった。



ちなみに座主坊へは県道378号と主要県道である67号が交差している集落である。67号は宇奈月・大沢野線で家の前の道路でもある。また、「瞽女の記憶」では、この道を瞽女街道とも呼んでいた。目に良いとされる大岩不動尊へ繋がるのもこの67号線でもある。逆に下の方へ進めば芦峅雄山神社(オレンジ◯)へ辿り着く。

それはさておいて、岩峅寺から座主坊へ進む378号線を返ってくると、左手山中に寺のような神社のような古びた建物が、まさしく佇んでいた。
「なんだろう?」と進んでいくと
こんな看板があった。↓

「えっ!」「親鸞聖人の御分骨?」

『ウソだろ』と想いつつ、車を止め見に行った。

「見真大師御分骨霊場」とある。

神社配列で言えば本殿を配する場所に六角堂と墓様のものが建っている。

なんか、本物らしい……。
見真大師とは、親鸞の諡号である。

近くの(常願寺を渡ればある)大山図書館に行って、立山町史を見る…。


親鸞って、「墓など作らず魚の餌にでもしてくれ」と遺言していたはずなのに…弟子たちはそう出来ず…
その内の一部を清寿が覚信尼から分けてもらったのだろう。清寿は親鸞の三大坊の一人…願海坊の子で親鸞の最後を看病していた。覚信尼はその姿に心動かされたのだろう。

先程の写真は、六角堂には親鸞の、手前は願海坊の墓なのだ。


ちなみに町史はたぶん間違えているのだろう…
覚信尼は親鸞の末女の名であり、妻は恵信尼である。


分骨はされはしたが、大きなお寺の間でのようである。
この栃津の小堂は富山市にある願海寺で守っているが、こんな小さなお寺で見ているというのは、異例中の異例なのかもしれない。

「真宗の舎利信仰(蒲池勢至)」より

 弘長二年(一二六二) 十一月二十八日午の時、親鸞は「押小路南万里小路東」で往生、そして、東山の延仁寺で荼毘に付され拾骨された。高田専修寺蔵の『教行信証』識語には、二十九日午時に遠江国池田住僧である専信と下国高田住僧である顕智が親鸞の「御舎利蔵畢」とある。 親鸞の遺骨は、単なる骨ではなく「御舎利」として拾骨されたのである。その後、舎利としての親鸞遺骨は鳥辺野の北大谷に築かれた墓所の石塔下に納められ、さらに文 永九年(一二七二)に改葬されて廟堂に移された一方、遺骨の一部は関東門弟に分けられて、 高田専修寺の親鸞御遺骨や浄興寺 (新潟県上越市)の「親鸞御頂骨」として伝承されてきた。このことについては、かつて論じたことがあるので参照していただきたい。


文化時報2022年5月20日号の掲載記事です。

 浄土真宗の宗祖親鸞聖人と第8代蓮如上人の遺骨を有する真宗大谷派慧光寺(近松暢昭住職、大阪市平野区)は11日、浄土真宗本願寺派顕証寺(近松真定住職、大阪府八尾市)に、親鸞聖人と蓮如上人の遺骨を分骨した。東西本願寺の分派以降、両派寺院間での分骨は史上初めてという。「御坊」と呼ばれる東西の名門寺院同士が、恩讐を越えて遺骨を護持し教えを伝えることで、来年両本山で営まれる「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」の円成を目指す。(編集委員 泉英明)


諦めて帰る途中に出会ったのだが…

なかなか、おおそれたことが、静かに静かに佇んでいる…。


お堂への小道から見える尖山。

まことに尖山がよく見える場所だ。

ホントは「布倉山」が正式なのだが…。

そう、姉倉姫と伊須流岐比古との戦いの際、姉倉姫を加勢したのはこの山の麓に住む布倉姫なのだ。


おまけ

最初に揚げた地図の

🔵はたまに行く吉峰温泉の場所。

水色◯は岩峅寺の雄山神社の場所。

オレンジ◯は芦峅寺の雄山神社の場所。