菅野保さんは、昨日の写真を見て、「百年間なんの進歩もない!」と発言されてます。(参考1)
確かにそうなのかもしれません。
イタリアと比較すると素直に頷けます。(参考2)

ただ…、天邪鬼な私は…ホントなのかなぁとも…どこか感じてしまいます。
それが何なのか、つらづら書いてみたいと思いました。

たぶん《プライバシー》感覚の違いなんだろう…と。

「裸はいつから恥ずかしくなったのか」には、身体の裸を意識するようになったのは、明治の脱亜入欧政策以降と考えていた。江戸時代…明治に入ってからも男も女も、裸を恥ずかしいことだと考えていなかった。(顔の延長と言うか…)湿潤気候の島々に暮らしてきた人々には、その方が快適だった。

生物として繋ぎ続けるための欲情のスイッチは、裸ではなく《仕草(しぐさ)》であったようだ。別の本では覗きなり出歯亀は明治も後期になって生まれてきた文化だと書かれていた。(昔読んだ本で出典は忘れてしまった。)

つまり、裸そのものには性的シグナルではなかったのだ。乾燥地である大陸の文化では、西洋も中国も視覚刺激でスイッチが発動してしまう。そんな中で築かれたプライバシー文化なのではないだろうか。だから、未だにカタカナで語っている。

同じように「音」も大陸と島々では異なった文化を育ててきた。西洋のお化けは〈カタカタ〉とかの音から始まるが、日本のお化けは〈なまあたたかい〉等の風?肌感覚から始まる。〈ヒュードロドロ〉とは空気(風)を効果音で表そうとしたものだ。

菅野氏のように進歩していないと嘆くのは、脱亜入欧の線上で考えている。そんな気がして、そうかなぁ~と疑問を感じてしまうのだ。

なんか、下の写真からはどこかこの島国の生き方を感じてしまうのだ。逆に言うと、イタリアのようなテント暮らしは孤立に耐えるだけの自我の強さを必要とするような…。

100年を越えた同じ風景は、人々の自我の有り様が映し出されているのかも、と思うのだが…



 (参考1)



 (参考2)



余計な一言
昨日今日のポスティングで歩いた累積歩数↓

玄関表に花が活けてあり、美しいと思った。