今日の回覧板にこんな案内が入っていた。↓


今年は秘仏「嵯峨虚空蔵菩薩」の33年ぶりの御開帳なのだ。
そもそもこの寺「帝龍寺」は姉倉比売神社の別当寺(神宮寺)で虚空蔵菩薩は姉倉姫の本地仏なのだ。つまり、姉倉姫をお祀りするためにこの寺は建てられた。

姉倉比売神社とは、延喜式に婦負郡筆頭に掲げられ式内社。


文武天皇は彼の兄弟(御連枝)に祭祀するよう命じたと言う。帝龍寺を中心にグルっと寺と城が結ばれていた。東薬寺と帝龍寺しか今は残っていないのだが…(この図は東薬寺の縁起本から拝借)

これは越中南部の荘園の整理なのだが、舟峅寺郷と下山郷は荘園に巻き込まれず独立を保っていた。(下山郷とは、立山信仰の集落である。)舟峅寺とは帝龍寺のことで、山号は「船峅山」で、その山号が通り名となっていた。

大沢野町と合併する前の「船峅村」もここからきているように想う。たぶん「ふなくら」と言う呼び名にこの漢字をあてたのだろう。「ふなくら」と言う音は、広い空間が急に狭くなる場所を古代の人々はそう呼んだようだ。
アイヌ語辞典から写す↓(この地は縄文遺跡が連なる地)


帝龍寺(たいりゆうじ)

姉倉姫あねくらひめ神社の南に接してあり、船峅山と号し、高野山真言宗。本尊千手観音。貞享二年寺社由緒書上には、大宝二年(七〇二)真福が京都嵯峨野さがのから虚空蔵菩薩を遷座して開基し、七堂伽藍と寺家三六〇坊があったが、応永年中(一三九四―一四二八)に火災により縁起・記録などすべてを焼失し、本寺一坊となったとする。寺社由来には真福を文武の連枝真福親王とし、本尊を姉倉姫神社、本地仏を虚空蔵菩薩とする。初め帝立寺と称したが、いけはら竜退治を経て退龍寺、のちに船峅山帝龍寺となったとの伝承もある(帝龍寺縁起)。(コトバンクより)


なお、姉倉比売神社の奥の院には菊紋が施されている。



この地図は国交省が作ったもので、周囲の文化財等がうまくまとめられているなぁ〜と感じ入った。帝龍寺は🔴11、姉倉比売神社は🔴13である。
元図はここよりダウンロード。↓