数学が苦手だった私が、和算に出会い…
今日は北陸における和算を調べてみた。
・石黒信由はどうして、加賀藩の測量をしたのだろう?
・伊能忠敬と違わない精密な地図を描いている。
・その能力はどうやって身につけたのだろう?
???が湧いてくるえー


三重大学の田中伸明と上垣渉さんにより「北陸地方における和算の伝統」と題す論文が書かれていた。
北陸には関流和算が主に4系統の流派が伝わっていた。
並べてみると…
1 三池流。
  大坂の三池市兵衛が大島喜侍より学び、金沢への移住により北陸へ。藩士の山本彦四郎に継ぎ、金沢の藩校に広がる。
2 関流直系。
  富山町に住む中田高寛が江戸で山路主住はじめ、続く2伝から学び関流5伝を名乗る。帰郷し富山で私塾をひらく。
3 中根流。
  藩士ー和田耕蔵が京都で大橋充敷より学ぶ、三池流と反目、少数派の立場。
4 滝川流。
  瀧川有乂(ありはる)が、様々な流派を学び独自流派を立てる
この他、能登は海路で富山と繋がり、何人も富山で学び、能登へ帰り教授している。この論文では、北陸を採り上げて書いるが、飛騨や美濃には高木充胤の名があちこちで残っている。呼ばれて出張講義に出かけていたようだ。

中根流、三池流は藩士(武士)が学ぶが、多くは農民、町人が和算を担っている。先日の下川さんの文にもあったが、江戸幕府は農民や町人のシステムの上に乗っかっているだけ。実際の社会の担い手は農民・町人などであった。和算を調べてみて、やはりそうなのだと思う。富山の中田高寛にしたって、石黒信由にしたって町人・農民だった。
武士が支配者と言うのは、チト違うようだ。
彼らは今で言う「数学者」。私塾で生活を立てるなど、意外と自由だ。中田高寛は藩主に江戸へ連れて行って貰っている。これなんてどんな関係?学校で学ぶ歴史はどうしても、支配者目線で綴られてしまう。信長や秀吉のように「力」を振りかざす乱暴者ばかりで歴史を組み立ててしまう…。まぁ、目立つからそうなってしまうのだろうが…。
はてさて、それでわかったつもりで良いのだろうか?

田中伸明さん等の論文より↓


おまけ(太字、下線は私が入れる)

その論文から系流が書かれた部分を抜粋する。
北陸には

1. 北陸和算の第1系統(三池流)

 いわゆる「北陸地方」は,江戸期においては“加越能三州”と呼ばれるが,加州とは加賀国の別称であり,現在の石川県南部に相当している。また,越州とは越前国・越中国・越後国の総称であり,それぞれ福井県嶺北地方・富山県・新潟県に相当している。さらに,能州とは能登国の別称であり,現在の石川県北部のことである。したがって,加越能三州は南から順に,福井県北部・石川県・富山県・新潟県にまたがる地域を指しているわけである。

 これらの地域における和算には,大別して4 つの系統を見出すことができる。

その第1 は三池流である。

正徳年間(1711-1715),享保年間(1716-1735)の頃,大坂の三池市兵衛大島喜侍に算学を学び,長じて一派を唱えて「三池流」と称した。大島喜侍は前田憲舒,島田尚政に学び,後に関流の中根元圭(1662-1733)に学び,関流和算を会得し,大島流を唱えた和算家である。

 三池市兵衛は故あって北陸・金沢に移住し,和算の伝授を行なうが,これが金沢における江戸算学の最初の伝来である。市兵衛は前田駿河守の家臣・山本彦四に算学の才能があると見抜き,その奥義を伝授した。

そして,彦四郎はその高弟・西永廣林に三池流を伝授し,さらに廣林は高弟・下村幹方に伝授した。これによって,彦四郎・廣林・幹方はそれぞれ三池流初伝・二伝・三伝となったのである。

 廣林には著書『段数不知明解』があるが,その自序によれば,廣林の息子・廣和は父の算学を継承しなかったとのことである。また,三伝・幹方から直接伝授を受けた門下生はいなかったことから,三池流は三伝・幹方で途絶えてしまったかの如く思われるが,幹方の『段数不知明解口授書』の跋文から,村松秀充がその伝統を継いだと考えられている。(中略)宮井安泰は寛政4 年の加賀藩校・明倫堂の開創以来,算学師範を務めた優れた和算家であった。

 ところで,和算(数学)は天文学・暦学・測量術と密接な関係にある。遠藤利貞によれば,上記の五伝・安泰は山崎流測量術を田中彦七に学んだと言われているが,田中鉄吉によれば,安泰は初め本保以守に学び,後に木梨安通及びその師石丸賢に学んだとされている。

 本保以守は西村遠里に天文学及び山崎流測量術を学んだ天文暦学者であり,西村遠里は山崎流の流祖・山崎兵太夫の系譜を継いだ天文暦学者である。この遠里の門下生に西村太冲がいた。太冲は明和4 年に砺波郡城端町に生まれ,17 歳の頃,京都へ上り,医術の修業に励む傍ら,山崎流の測量学者・西村遠里に入門し,暦学を学んだ。そして,天明7年遠里没後,実子のいなかった師の跡継ぎとなり,西村姓を名乗ったのである。さらに天明8 年には,大坂に出向いて,評判の高かった麻田剛立に師事し,ヨーロッパ・中国から伝えられた三角関数,対数などを研究し,寛政5 年故郷に帰った。

 寛政 11 年,太冲は加賀藩主前田治脩の命で,藩校・明倫堂で天文暦学を講義したのであるが,このと,越中の和算家・石黒信由は,太冲から当時最高水準の天文暦学,西洋数学などを学んだのである。


2. 北陸和算の第2系統(関流直系)

 第2 の系統は越中富山の中田高寛に発する。高寛は元文4 年,越中富山長柄町に生まれ,初め廣瀬吉兵衛,松本武太夫に学ぶが,まもなく師を凌ぎ,安永2 年,藩主六世・利與公に従って江戸へ行き,関流直系三伝の山路主住に学んだ。その後,主住の息子・主徴及び関流直系四伝の藤田貞資に学び,関流直系五伝を名乗った。高寛は安永8 年,富山に帰り,桃井町で算学塾を開き,算学の開拓に励んだのであり,これによって,越中における関流算学の開祖となったのである。

 石黒信由は,越中射水郡高木村に生まれる。天明 2年,富山の中田高寛の門に入り,15 年間の修業の後,関流和算を修め,関流直系六伝を名乗った。また,測量術を宮井安泰に学び,天文暦学を西村太冲に学んだ。

享和2 年,高寛没後,信由は北陸第一の和算家として,多くの門人の育成にあたったのである。

 石黒信由の主著は『算学鉤致』(全 3 巻,文政 2 年)である。上巻・中巻は,「八書」に掲載された百問の正確な答術を記した書であり,これまで誰も解けなかった難問も掲載されている。下巻は,信由門下の 50余人に加越能三州の寺社に奉納されていた算額の問題を収集させ,算題集として編纂したものである。この『算学鉤致』は,和算の独特の風習である遺題継承に

終止符を打ち,内容とその豪華さで信由の名を全国的に知らしめた書であり,和算史上の画期的な名著である。

 なお,上記の「八書」とは,『算法天元樵談集』,『下学算法』,『中学算法』,『竿頭算法』,『算学便蒙』,『探玄算法』,『開承算法』,『闡微算法』のことである。


3. 北陸和算の第3系統(中根系関流)

 和田耕蔵は定番歩士にて加賀藩の算用場に勤めていたが,京都に勤務中大橋充敷に和算を学び,帰郷した。大橋は京都で,関流三伝の中根彦循に学んだ和算家であった。したがって,金沢に中根系関流が伝来したのは和田によってである。

 当時,すでに金沢には三池流和算が広まっていた。しかし,理由は定かでないが,和田の中根系関流は三池流とは相容れず,三池流を非難する文書も残っている。三池流も,その源は関流二伝の中根元圭(中根彦循の父)にあるのだから,不思議な話である。

 和田耕蔵によって金沢にもたらされた中根系関流は,和田の弟子である中野庄兵衛に引き継がれた。庄兵衛は師耕蔵の跡を継いで藩校(明倫堂)の師範を勤めた。中根系関流は,その後,庄兵衛の門下で修業した近藤兵作へと継承されていく。

 ところで,中野庄兵衛には実子がなく,養子として正直を迎える。中野正直は藩校師範であった近藤兵作に従って,算学を修業し,皆伝を受けた。中野庄兵衛は天保3 年没し,中野正直は安政6 年没し,墓はいずれも野田山にある。

 金沢における中根系関流は,初めは三池流の隆盛に圧倒され,後には,瀧川流の勃興に禍いされ,少数派の立場に置かれていたと言える。


4. 北陸和算の第4系統(瀧川流)

瀧川有乂(ありはる)は,文政 2 年定番歩士であった父有中の跡を継ぎ,算用場吏を勤めた。初めは三池流・宮井安泰に学び,後には,神谷定令(藤田貞資の門下)及び坂部広胖などに学んだ。林鶴一によれば,最上流祖・会田安明にも学んだことになっている。

 瀧川有乂は,さまざまな流派の和算を学び,その後,独自に「瀧川流」創始し,規矩亭と称した。その邸宅は金沢犀川上川除町にあったことから,人呼んで「犀川算聖」と言われる。有乂は弘化元年没し,野田山の先塋に葬られた。

 有乂の長男・友直は父の跡を継ぎ,算用場吏を勤め,規矩亭 2 世を称した。瀧川友直は文久 2 年,47 歳で没し,野田山先塋に葬られた。友直の息子・永頼は幼少のため,有乂の三男である三好(善蔵)質直が代師範を勤め,規矩亭3 世を称した。

 また,有乂の二男・正直は出でて,算用場吏・三好賢能の養子となるが,幾許もなく死去したことにより,三男・質直が跡を継いだ。この理由により,有乂の三男でありながら,三好姓となったのである。三好(善蔵)質直は,明治 13 年,59 歳で没し,本覚寺先塋に葬られた。瀧川永頼は後に神戸に移り,鐵工会社に従事し,余暇に珠算を教えた。明治37 年没。


5. 能州の和算家

 能州の和算は主として一衣帯水(いち"いたい"すい)、舟運の便のよい越中より伝播した。陸路金沢とはほとんど交渉はなかったと思われる。志摩好矩は鹿嶋郡能登部の人で,富山の和算家・高木充胤に学び、能登に帰ってから、和算を教授するようになった。また、その息子である志摩則正も父や高木充胤について和算を学び、藩の用達を勤めた。

 狩野貞清はもと珠洲郡鹿野村の人で、高木充胤の門下生であったが,後に、鳳至郡宇出津で和算を教授した。その息子である狩野貞寛江戸・内田五観(関流正統六伝)に和算を学んだ。

池田明信は鳳至郡穴水の人で、舟持ちで、木材及び薪炭問屋を営み、しばしば越中を往復した。やはり、富山の和算家・高木充胤に就いて和算を学んだ。こうして、穴水の和算は池田明信によって開眼させられたと言える。

 能州の和算家は他にも、鳳至郡中居村の中城豊吉、珠洲郡直村の菊池武九郎、鳳至郡輪嶋の村木勘十郎などがいる。


論文

https://mie-u.repo.nii.ac.jp/record/3437/files/20C15573.pdf


論文の1ページ目。



参考