今日、ニュースチェックしていたら、こんな記事を見…
そして複雑な心境となった。


「今後、現状に即して考えていきたい」神社の地震被害3700件超 復旧にむけて県の支援は? “政教分離” もコミュニティ施設の側面どうみる 

富山コメント2件 3/19(火) 19:34配信

能登半島地震の影響で、富山県氷見市や富山市など県内560か所の神社で、灯篭や鳥居など3700件を超える被害が確認されていることが神社庁の調査でわかりました。

宗教法人にあたる神社は「政教分離」の観点などから、復旧に対する公的支援を受けることが難しいのが現状で、富山県による公的な支援は行われていません。

一方で神社は、獅子舞などの祭りや行事などで地域の住民が集うコミュニティ施設の側面もあります。

19日の富山県議会で新田知事は、地域コミュニティ施設として認められるものについては、施設を管理する集落や自治会を対象に支援が行われた熊本県などの実例を参考に「今後は現状に即して考えていきたい」と述べました。


複雑な心境とは次のコメントを見たのだ。↓

神仏分離を図らい、神社優遇策を採った明治政府。戦後、政教分離の明確化を求められ、現在に至っている。
政教分離なのは当たり前なので、二人の意見は御尤もと言いたいのだが……。

政教分離の明確化を言わなければならなかったのは、明治政府の所業故なのである。明治政府は明らかに神社を利用した。明治当初、坊主は神主にならないと生活できなかった。やがて、神主の経費が負担になりだすと「合祀令」となった。市町村単位に一つあれば良い、各地域(集落)毎の神社を無くそうとの考えだった。神社という名前を利用してきたが、もう用済みなので明治政府が新規に作った神道に統合しようというものだった。靖国や護国神社はその代表例。

現在の多くの神社がアマテラスを合祀しているのは、明治政府の意向を忖度して、各神社は懸命に皇室に右習えした苦肉の策なのかもしれない。まだ、不勉強なのだが神官の居る神社はこぞって異様にアマテラスを合祀している。
そんな神官達に払う給金や管理経費を減らしたくって、「合祀令」とは…かわいそうなものである。幸い、南方熊楠等学者・文化人の働きによって、全国に広まることはなかったが…。


(ウィキペディアより) 明治39年神社合祀令以降、1898年から1916年の間に境外無格社は大阪府約8割、滋賀県約5割、奈良県約4割、京都府約2割、府県郷村社は大阪府約5割、奈良県、滋賀県、京都府約1割が消失した。「三十九年より四十二年末に至る迄に、府県社、郷社、村社、無格社の数が、実に四万五千も減って居る。」。全体でみれば府県社・郷社の減少はほとんどみられないが、大阪府では府郷村社は半分、三重県では明治36年に1万524あった神社が大正2年には1165にまで減少した

神社は為政者に利用される木偶のようなのかも…とも。

なぜ、こんなに「神明社」が多いのだろうと疑問に本を読んだことがあったが、どうも伊勢神社の広告マンである御師達の努力の成果のようでもあるみたいだ。新田開墾の苦労の中、御師達は皆の苦労に耳を傾け、皆がバラバラにならないよう励ましたそうである。それで、開墾達成時には、御師のもとであるアマテラスを招聘したという話が、よく聞かれる。御師達が民の心を支え続けたと言う目に見えない努力の姿が「神明社」の名に残っているようだ。言ってみれば名も無いセールスマンのおかげで会社名が残ったと言うか…。

つまり明治前は神社って民のものだったし、土地の神だったように想う。ついでに言うなら神も仏もおんなじで、インドではアミダと呼ばれてた位の抱き方じゃなかっただろうか。どの神仏も現れ方がその時々(得意不得意)で…みな『カミホトケ』だったような…だから、民も求めに応じ使い分けしてたような…。

そんな民のものだった神仏の内、まず外国との共通性を切捨て、神も皇室由来に…と、神も民のものから国のものに置き換えさせられる過程であった、それが明治維新後の宗教政策なのだ。この宗教政策のずるい所は、神道は宗教では無いと決めたこと。つまり、政策=宗教と言う、言ってみればカルト状況になってしまった…。おかげで神仏がいない「無宗教」状態になってしまった。宗教とは、私の想いとは遠いものになったのだ…。

今回、甚大な被害を被った神社達は元々民の想いから姿を現したものだった。確かに明治政府のやったような、宗教を使った国家意思の有り様は絶対駄目なのだが、それだと民の心は救われない。

潰れた社が目に入る中で、湧き上がる力はどれほどのものなのだろうか?

私達の土地を拓いた開拓民達はあばら家の中、石を置き社とし、家も社も少しづつ大きくしていったのではなかったろうか。どちらが先と言うことでは無かったと

要は、私には『公』が、いびつになっているように感じられるのだ。『社』も実は『公』だった。だから、無施錠の『社』は困った時には誰でも使うことが出来た。民達の『公』だったのだ。学校もそうだった。村民が金を出し合い学者を呼び寺子屋として、未来の子どもたちに投資していた。村人達の『公』としての想いだったのだ。

江戸時代の民の活動に目を移してみると、学校で学ぶような上から視線の歴史ではなく、民のたくましさ、スゴさが、見えてくるのである。たぶん、日本の民主主義はそこにあったのだと思う。明治になりそれは壊される事になったのだが…。

戦後、外国から再教育される事になったのだが、実は江戸時代までこの島々なりの民主主義を作り上げていた。何度も言うが、明治になりカルト信者たちに破壊され尽くした結果が先の大戦ということなのだろう。国民全てがカルト信者になった瞬間である。

先のコメントからはフト、表層的な正論を感じてしまったのだ。正論ではあるのだが…そんなに割り切れるものではない。その割り切れさに、根底から来る力の無さを感じてしまうのだ。



 

 

二人のコメントを前に「そうだ、そうだ」と素直に感じられない私が居るのを感じてしまったというところです。