熊野神社関係の資料が少しあるので…

少し書き留めて置きたいと思います。


下の地図の🔴が熊野神社です。かつては御手洗川(現熊野川)で舟を降りたというのだから、その川は1500m程南側(オレンジ◯を付した)を流れる川まで参道が延びていたのだろう。川に近くなるにつれ田んぼでかき消されるが、微かに真っすぐ熊野川に延びていた参道を見て取れる。
発掘で見つかった鳥居の跡があったのは、300m程川に寄った所だから🔵の辺だろう。第2鳥居がそこにあったのだ。


市営住宅造成のため工事してたら出てきたらしい。
その際に描かれた地図だ。↓



これが今の熊野神社。鳥居と拝殿が臨まれる。

これは拝殿の奥にある本殿。
橋を渡って本殿に行くことになる。

本殿の横には昔の狛犬が3組置かれている。
一番奥のは摩滅してようやく狛犬と分かる。とすれば、先程鳥居の横に写っていたのは4代目と言うことだろうか。


しかしながら本殿と拝殿の間に川が流れ太鼓橋を渡って行く構図というのは、あまり見たことがない。不思議な構図である。

昭和40年11月30日の富山新聞に掲載された記事↓

伊勢神宮なみだった熊野神社

鳥居の一部みつかる 500年ほど以前のもの

富山市辰尾にある熊野神社が、約500年ほど前までは伊勢神宮におとらぬ大きな神社であったことを物語る大むかしの鳥居の一部が、このほど市営住宅の工事現場から発掘された。

富山市の中心部から6キロ離れた同市辰尾地区は、いま市近郊のベッドタウンとして田畑をつぶし、どしどし住宅が建てられており、昔ここに森林につつまれた大神社があったおもかげもない。同地区にある熊野神社から300m南に離れたところでも、住宅団地として富山市が90戸の住宅建設を進めている。

ところが、このほど、この工事を請け負っている富山建設の人夫たちが排水路工事中、深さ約2m(中略)

500年ほど前まであった鳥居の一部であることがわかり、熊野神社の規模を物語る貴重な物的資料となった。

「熊野神社旧記」といういまから171年前の寛政6年4月に書かれた古文書には、鳥居は焼失したが、その一部が「宝暦年中(1758)に田地の底よりまわり五尺の鳥居の沓石を掘り出す。一つは当社に持ちきて(現在紛失してない)もう一つは割れてその地にある・・・一の鳥居は南方にあるものと推定」とはっきり書かれている。

この古文書を裏づけするかのように、こんど「割れてその地にある」という鳥居の一部が発掘されたわけだが、このように古文書と一致して発見されたのはこれが初めて。こんど発掘されたのは二の鳥居で、関係者はさらに南に寄った所に一の鳥居がまだ地下にうずもっているのではないかと見ている。

富山新聞昭和40年11月30日


【延喜式神名帳】熊野神社 越中国 婦負郡鎮座

【現社名】熊野神社

【住所】富山県富山市宮保 476 北緯36度37分38秒、東経137度13分3秒

【祭神】櫛御気野命 (合祀)天照大神 応神天皇 水罔女神

【由緒】斉明天皇4年(658)創立

    享保10年(1725)7月早天に十七日の雨乞行う

    寛政10年(1798)社殿改築


神社から数百m、千mも隔つた地の、深さ2mの地下から、鳥居の沓石、鳥居の下部の木柱など、神社の遺構が発見され、宮保を中心として極めて宏荘な古い大社の存在したことが裏付けられている。


ちなみに、先程の地図の右手に「上熊野」と書かれた辺りに神社と寺の記号が書かれている。そこにはかつて「上熊野城」があった。南北朝の頃には有り、結果、上杉勢により攻められ燃やされてしまった。その城趾にお寺と社が移築されてきたようだ。