(2)日米通商摩擦の激化
1983―84年にかけて急拡大した米国の景気は,1984年第3四半期から鈍化し始めた.景気が減速する中で,日本からの輸入拡大に伴う対日貿易赤字が注目され,1984年秋頃から,日米通商摩擦がかつてないほど深刻化し始めた.
1984年10月5日,アメリカ両院が相互主義法案や鉄鋼輸入制限法案などを含む包括貿易法案で合意に達し,可決の見込みが強まった
2).日本側は,「運用次第では保護主義的効果が大きい」と認識し,警戒感を強めた.米レーガン大統領は日本車の輸出自主規制延長に消極的であるなど必ずしも乗り気でなかったが,野党民主党の攻勢を受け,議会の保護主義的動きにも一定の配慮を示さざるを得なくなってきた.
日米首脳会談での中曾根・レーガン合意(1985年1月2日)を受けて,1985年初めから日本政府は新たな市場開放策作りに動き出した.アメリカ側の主な対日市場開放要求は,木材製品・アルミ製品・くるみなど144品目の関税引き下げ,通信機器貿易の不均衡是正,通信衛星の購入保証,新電電会社の資材調達協定の継続,プログラム権法案の成立断念,医薬品,医療機器の基準・認証制度の改善,米国石炭の購入増,米国人弁護士の日本での活動の開放,政府資材調達の競争入札の拡大,特許審査期間の迅速化等であった.具体的な市場開放政策策定にあたって,中曾根首相は,特に,米国とハイレベル協議を行っている4分野(通信機器,木材,エレクトロニクス,医療機器・医薬品)について具体的な成果を上げるよう指示した
3).1985年3月28日,米上院本会議は,大統領に対日報復措置の実施を求める決議を全会一致で可決した.内容は,「日本の不公正な貿易慣行」に対抗するため,1974年通商法301条に基づき,輸入制限を含む「適当で可能なあらゆる対抗措置」をとることを大統領に要請したものである.4月3日には,米上院財政委員会が,議会決議に法的拘束力をもたせるための対日報復法案を可決した.さらに,3月末には,レーガン大統領が,5月初めの日米首脳会談(ボン・サミット期間中)で,中曾根首相に対し,「日本市場が開かれなければ,議会による対日報復の保護主義的な立法を阻止できない」と直接警告する方針であることが報じられた
4).4月3日,日本政府は,「対日報復法案は日本に対する差別であるのみならず,自由貿易に対する脅威でもあり,その成り行きを極めて憂慮する.日米両国関係と世界貿易のために法律として成立しないことを強く希望する」との見解を発表,また電気通信などの市場開放に積極的に取り組んでいることを強調した
5).もっとも米国側も一枚岩ではなかった.大統領と国務省は米議会に対し,対日報復法案が本会議に上程されるのを遅らせるよう働きかけた結果,さしあたり5月初旬のボン・サミット以降まで棚上げされることとなった
6).また,4月13日には,シュルツ米国務長官と安倍晋太郎外務大臣が,「協力して保護主義の高まりに対抗していく」決意を表明した7).
この間,日本政府は貿易黒字削減のための市場開放政策を検討し,3月30日,政府の対外経済問題諮問委員会(大来佐武郎・座長)が「報告書」をまとめた.
「報告書」では,それまでの6次にわたる政府の市場開放策が海外からの要請に場当たり的に対応した受け身のものだったことを反省し,海外との経済交流について「エネルギーや食糧を除き原則自由」という基本原則を確立すべきことを強調した.具体策として,自主性,国際性,実効性,透明性の原則に基づく3年程度の「行動計画」(アクション・プログラム)を作り,⑴先進国の合意の下で原則的に工業製品の関税を全廃するよう努力すること,⑵輸入制限品目をさらに減らす,⑶基準認証,輸入手続を国際水準に合わせて簡素・透明にし,行政の裁量を小さくする,⑷政府の外国製品購入を増やすため,契約手続を改善する,⑸金融・資本,サービス部門を一層自由化する,などを盛り込むことを求めた.さらに,各種規制緩和や週休2日制の普及などによる内需拡大を要請した.これを受けて,1985年4月9日,政府は経済対策閣僚会議で,関税引き下げや輸入手続改善などの市場開放を3年以内に実行する政府のアクション・プログラムを7月中に示すことなどを決定した.さらに,中曾根首相は,テレビ中継を通じて,国民に対し「外国製品を一人100ドル購入する」ことを求める異例の呼びかけを行った.