人って…、歴史を重ねて…、

少しづつではあるが、前に進んでいる…

賢くなっているって…

想っているのだが…。


今朝…ではなく昨日の朝、

北陸中日新聞にこんな記事があった。



要は、防災基本法で言う「二次避難所」…つまりは、福祉的避難所がなく困っている状況の記事だ。石川県地域防災計画に、そのように書いてあるとは、何度か話した。

この記事では…個人の努力でなんとかなった話だ。
この記事では、「福祉避難所」との言葉使いで、計画はあったが設立できなかったとある。そもそも施設や対応する人々自体が被災し開設できなかったという。そして、健常者用の避難所でも「個室」があれば済んだ人もあり、複数のプランを用意すべきではの考えを紹介している。

「配慮が必要な人」とは、実は多様である。一人ひとり違うので一概には括れない。そのことはわかるが、とりあえずそのような既存施設を「二次避難所」と呼ぼうというのが災害基本法及びそれに基づく地域防災計画の考えである。「配慮が必要な人」の存在を前提にしている。今回、省みられもしなかった計画であった。

今回、石川県の頭の中には、浮かんでは来ない『前提』だった。だから、現場の人達、当人たちの努力に任されてしまった。

一方、避難所の環境比較をイタリア等と比較され、日本の雑魚寝方式の実態を懐疑する論評も目立った。それを聞きながら個室で育つ西欧と川の字で育つ文化の違いを感じたりもしていたが、明治以降西欧化の道を歩き始めた以上、雑魚寝方式では対応不能な日本人にもなっている。性事件が生じるのも無理からぬことなのだ。(混浴が当たり前の江戸期までの心象は、湯室の男女分離化後、出歯亀が出現する人間性へと変化した。)明治期に選んだ道は、西洋のように個室を必要とする体質と変化している。

そのように考えると立木茂雄教授の提案は、受け止める必要があるだろう。

災害に合うとは、関係する人と施設が奪われる。
想定をゼロに戻さなければならない事態なのだ。

残った施設を利用しながら、個室を確保できるイタリアのようなシステムは、立木さんが求める「個室があれば済んだ」場合へも対応できたかもなのだ。


また、雑魚寝方式は出歯亀を生む、また困った人がいても見て見ぬふり振りである現代人では無理のようだ。それは、今後出てくるであろう性問題の発生からも窺える。
問題の処理を他者(専門家)に任せ、自己の正当性に目が向いてしまう現代人では、難しいだろう。

実は、この現代人の姿は…震災直後、
「ボランティアは行くな!(来るな!)」の心象と重なっていると私は見ている。そのように対応した人々とは、問題の処理を他者(専門家)に任せたがる心象からの統制(秩序)を求める声のように想う。その視点から見ると「邪魔しないことが一番」となる。

一方、駆けつけたくなる心象は、邪魔し合うこととなるかもしれない。けれどもそれは新たな人と人のつながりをも意味する。わからない中でそこの人たちと新たな歩みを見つけよう…という動きでもある。『共に』と言う…そのような姿が実は人に力(エネルギー)をもたらしてくる。

「配慮を必要とする人」とのつながりも、そのような関係の中から、新たな学びとしてお互いに生まれてくるように想う。なぜならわからない存在が…、わかろうとする中で。

繰り返すが、専門家に任せると言う世界は、わかっている人に任せると言う事である。わかった人と知らない人がいて、知らない人は邪魔するななのだ。そこは、固定化した秩序維持の世界なのだ。

考えてみれば、田舎の生活とは、わからないばかりの世界である。鳥小屋も豚小屋も自分で作らなくてはならない。山水を引いてくるのも自分でである。燃料も山に入って枝を集めて干して置かなければならない。

わからないことを、周囲を見ながら、行動する。それが経験として知となっていく。そしてつながっていく。

今回は、わかっていると思った人々が、秩序を維持しようとした声から始まった。その声が「ボランティアは行くな(来るな)」であった。それは秩序を優先し、命を蝕む心象から発せられたのだろう。

人は…、わかった人達は…
固まり、沈んで行くものでもあるようだ。