昨日は図書館で、能登のことを調べていたが、細かい文字が多く、もう少し時間が欲しい…。

で、もう一つの疑問。
何故「加賀国」って呼ぶんだろう?を書いてみたい。

そもそも「加賀国」って律令最後に出来た国なのだ。
(ちなみに飛鳥、奈良時代には加我郡と記される文献もある…いづれにしても元は「かが」と言う音なのだ)
前にも言ったが、
コシ(古志or越)の国から
689〜692年に越後、越中、越前に分割。
718年に越前から能登が分割。
それから遅れること823年に越前から加賀が分割した。
この形(能登と加賀がくっついたままではあるが…)で、今の県が形造られている。

越前国から分割する際に何故、能登(ノト)なり、加賀(かが)と名乗るようになったのだろう?気になるのである。
あとはコシの国の「前」「中」「後」で、まぁ備の国や豊の国等と同じなのだが…

「かが」の由来とは…?
一つは、「カガ」の音は草原・芝原を意味する、説。
もう一つは、「光り輝く」から『かがやく』を表すの意、説。
あと一つに、自然の力で「欠けた土地」の意、説もあります。

それぞれをさらに詳しく述べると…
①草原・芝原の意
柳田國男の地名研究から
青森では芝のことを「カガ」と言うそうです。青森だからアイヌ語の名残かもしれません。
このサイトから持ってきました。↓


②輝く説

出雲国風土記にこんな話が残っています。

島根県の島根半島に加賀と言う地名が、残っています。その由来が風土記に書かれていたのです。ただ、ここでは「かか」と呼ぶそうです。昔は「かか」だったが現代では「かが」と濁るようになったのかもです。


伝承

加賀神埼には窟(いわや)がある。ここはいわゆる佐太(さだの)大神(おおかみ)がお産まれになった所である。御子神がお産まれになろうとする時、弓矢がなくなった。母神である枳佐加比(きさかひ)売命が「わたしの御子が麻須羅神(ますらかみ)の御子ならば、なくなった弓矢よ、出て来なさい」と祈願すると、最初角の弓矢が流れ出た。これを投げ捨てると、次に金の弓矢が流れ出て来た。そこで「暗い窟である」といって射通しなさった。このとき光輝いたので、加賀(かか)というようになった。



③欠けた土地の意
これは、出典が不明です。
「欠け(かけ)」「かけ」「かかる」と確かに欠損したらそのような言葉を使います。

 帝京大学の端山先生が「加賀の由来」と題され1ページ割いてらっしゃいました。↓


なお、②に戻るがWikipediaには加賀が、分割したいきさつが書いてあった。要は旧越前では広すぎて、代理者が不法を働き、民が逃散してしまったようである。

加賀と言うと「百姓の持ちたる國」が直ぐに出てくる。室町の後半(1488)から戦国時代にかけ、信長に攻められる(1580)までは百姓(寺)の自治国だったのだ。実際はどうだったのだろう…。調べてみたいことが、次々に広がってしまう。

さて、石川の加賀はどの説に近いんだろう?
どう思います?…『かが』

地名は音が残り、それに漢字が当てられ今に残ると思います。『かが』と言う音の響きにどんな想いをかつての人々は感じていたのでしょうか…。



付録
加賀神崎の窟↓ここに弓矢を放って、輝いたのだそうだ…


地名(荘園名由来)として「加賀(かか)」はある。↓


密かに通ろうとすると、突風が吹いてきて、船はひっくり返されるそうだ…。怖い!