明日は宮掃除やアマゾンの仕分け、夜には村人による新年迎えと、なかなか落ち着かない日となる。


身体がふらつくので一日横になっていたが、その間、先日古本屋で買った加藤紘一と姜尚中の対談本「創造するリベラル」を読んでみた。


なつかしい…

加藤紘一と言えば、右翼に山形の実家を放火された政治家だ。私には自民党の良さは「加藤の乱」とともに消えていったように思う。加藤の乱とは、森喜朗に対して起こした自民党内の反乱だ。加藤の乱の後は完全に清和会路線となり、小泉、安倍と日本の舵は清和会内でパス(引き渡)され続けた。同時に衰退、アメリカ追従が加速された。

加藤紘一、最後の良心とさえ言えるのではないだろうか。

こんな文があった。コミュニティが、日本の基盤であり、その充実・発展を進めたいと述べ、
そこで日本の地域社会では、人間はどういうふうに集まるのか、ということを考えてみてください。むかしは神社や寺、檀家総代というような宗教で集まったけれども、最近は 公立学校の学校区だと、私は思っています。ですから、小学校区・中学校区が日本を再生させる。 長年の選挙活動と地域社会を見てきた経験と、日本の社会の成り行きから見て、そう思います。

小泉さんや安倍さん、とくに安倍さんの教育再生会議の中で、学校選択制を提案しているけれども、あれをやったら私は自分の政治生命をかけても反対しようと思います。全国の保護者がみんな立ち上がると思っています。「あれ、まさか本気じゃないでしょうね」 という人が多いですね。」

加藤はコミュニティを下支えするのは【学校区】だと想定している。実際、学校は明治期当初、地域の人々の願い込めてその地区の人々の持ち寄りを集めて建てられた。学校校区とは、自然のコミュニティの範囲だったと思う。(日本のコミュニティの基盤が壊されて行く。)

後段に学校選択制に命をかけても反対する旨が書かれている。しかし、どうだろう…加藤が倒れ、当たり前のように学校選択制は定着している。


学区に縛られず希望した学校に行けると、一見、素敵そうな言葉が並ぶが、裏を返せば学校格差を認めることでもあり、一極集中を暗に含んでいる。
地域造りの発想は全く無い。

実はこれ、〈国家に従えばよいのだ〉の背景が形成すものだ。
地域が、手を取り合って地域を良くしよう、子どもたちを育てようではなく、良い学校に行けば良いのだ、行けないのは自己責任だの形と言っても良い。

結果、あっちの学校の方が設備が良いと、その学校へ集まる。船峅小学校の校区からも大沢野小学校へと行く人が多い。まぁ、その分予算を一極集中しているんだけれども…
学校の統合とは、そんな流れの結果なのだ。
人気無いし、止めようか…。

加藤が大切にしようとした地域造りは、考えられていない。
地域づくり?そんなの考えなくていい、国(私)に従えばいいのだ、なのだ。だから国(議)会も開かれず、閣議決定で進んでも良いと思考可能だ。

当たり前のように思考していると考えているのだが…、それは誰かに轢かれたレールだったりする。岸信介の流れ、清和会が轢いた流れの中で、考えていると思っているだけなのだ。


加藤の実家に火をつけたのは、菅野完さんに言わせると日本会議の流れをくむ右翼だそうだ。日本会議のバッグアップを受け、日本は衰退まっしぐら。

惜しい人を亡くしたぁ〜と想った。
岸さんを見てると、頼りないことこの上なく感じてしまうのだが…

参考
加藤の乱↓Wikipediaより