エンカウンターグループって、何やるの?

どんなとこ?

って疑問、よく聞かれる。


ホントは語りたいし映画にすれば、もっと認知してもらえそうなのだが・・そうはいかない。


プライバシーの問題もあるし、なによりわからないところが大事な気がする。


『ミステリと言うなかれ』と言うテレビドラマが月曜21時から流れるようになった。

面白い。原作のマンガも面白かった。


実は1~3話を見ていて、エンカウンターグループみたいだなぁと見えた。


バスジャックにあった人々。

最初、彼らはお互いを知らない。

お互いの一分の表出がお互いの印象を形作って行く。

「なんか怪しい奴だなぁ」

「怖くて危険な奴だなぁ」

「良い人ポイなぁ」

ドラマの場合はジャック犯が「最も深い罪を語れ」と場面を設定するが、やがてグループの中では何かのドラマが生まれ、内心が表出される。


淡路一平の場合

彼はいじめられてきた人生を話す。その言葉に皆、共感を抱く。そこへ、久能整がその話に別の角度からの光をあてる。


久能:あの、常々思っているんですが、どうしていじめられる方が逃げなくっちゃいけないんでしょうか?
欧米の一部ではいじめている方を病んでいると判断するそうです。いじめなきゃいけないほど病んでいる。だから、隔離してカウンセリングを受けて癒やすべきだと考える。でも日本は逆です。いじめられている子に逃げ場を作って何とかしようとする。
でも逃げると学校にも行けなくなって損ばかりする事になる。DVもそうだけど、どうして被害者側に逃げさせようとする。
病んでたり迷惑だったり恥ずかしくて問題があるのは加害者の方なんです。
例えば歩いていて誰かに殴られたら周りの人に言うでしょう?それと同じように先生や親にいじめられたら、あいつにいじめられたよ、あいつ病んでるかもしれないからカウンセリング受けさせてやってよって、みんなが簡単に言えるようになったら良いと思う。
いじめてる方が病んでいる?俺のせいじゃなくて。
そういう考え方に皆がなれば良いと思う。

ドラマでは時間が有限なので、手っ取り早く主人公が新たな視点を持ち込むが、グループ内では誰かがそれをもたらしてくる。それが面白いところ。誰かの新たな内心が。(それはドラマのような整った言葉ではなく、叫びとでも言える短い言葉なのだが)

ひとりの心の中に様々な人が棲んでいるように、グループ内にも様々な人がいる。その中のいつも静かに眠っていたその人(部分)が、その人の視点から語り出すとき、新たな角度の光が射し込んでくる。
すると、今まで見えていた世界が一変しだす。

久能整は別の視点を持ち込む役とも言える。それぞれの違いをそのまま生きることが、やがて皆が新しい世界に至る。

『ミステリと言うなかれ』は、内心を語ることが=一人一人の独自を生きることが、そんな変化もたらしていく姿を映し出す。現実的には、久能整は『ウザイ』人と設定されているようだ。その(日頃眠っている)ウザイ部分が新しい視点をもたらすのだろう。
確かに世を上手く渉るには一人一人の内面はウザイ。でもウザサがないと、沈滞してしまう。

淡路一平への場合は、加害者こそがカウンセリングを受けるべきと言う。僕もその通りだと思ってきた。苛めないといけない心性こそが、壊れている。苦しんでいる。それは誰もが心の奥底に感じていたことではないだろうか。ただ、同時にそんな人ほどカウンセリングの世界からは、遠くにいる。
勝者?こそが、有頂天という閉ざされた世界に棲んでしまう。

エンカウンターグループとは、そんなことが破られる空間、知らない者達が、内心に触れるに従い、個別で在りながら、ひとつになっていくことのかもしれない。



この空間の中で

これらの人々が

映し出す。

テキスト起こしをすると、つくづくわかる。
この俳優さんたち、凄い!