島田裕巳の「神社で柏手を打つな」


「あとがき」より

神社で柏手を打たないと言うことは、その第一歩になる。

柏手を打たないでどうするのか。必要なのは神に対して礼拝をする手段として、いったいどういう方法があるのかを考えるとことである。

二礼二拍手一礼だと、そこには、神に対して祈る時間が含まれない。ただ、神を崇めるだけで終わってしまう。果たして私たちはそれで満足出来るのだろうか。もっと心を込めて神に祈る時間が必要なのではないか。

(略)柏手を打った後、そのまま合掌して祈る人が少なくないのも、私たちが、祈りを大切にしているからである。二礼二拍手一礼では、その時間がとれないのだ。


島田は言う江戸の頃まで二礼二拍手一礼と言う作法はなかった。人々はただ、神の前で手を合わせ祈るだけだったと。


神仏混交の中で神も仏も違いはなかった。


これは江戸時代の伊勢参宮の際の図である。

人々は跪き手を合わせているように見える。


別の角度からの図。
江戸時代までの伊勢参りの姿だ。

それが今のようになったのは、1875年に『神社祭式』が定められてからである。(詳しくは「神社で柏手を打つな」第1章をお読み下さい。)

しかも神社祭式では神職の玉串奉奠に伴う作法を定めたもので、氏子(庶民)は含まれていない。言葉を換えれば神職が玉串奉奠をした後、下がって行う作法のみを取り上げた所作なのだ。

島田裕巳は宗教学者なので、信仰の核となる祈りが排除さることが気にかかり、この形を正しいと指導するのは、「自分達の権威を示そうとしただけ」とさえ言う。

このように島田は当たり前のように言われる「しきたり」や伝統について、疑問を傾け歴史やそれを生み出す原理を考える。

島田は言う。
しきたりの根拠やそれが成立した経緯をたどることによって、いったい何が見えてくるのかということである。その背景にある宗教の世界、信仰の世界の成り立ちを明らかにしていくための鍵になる。しきたりにただ従うのではなく、そうした考察を深めることが重要なのである。

カウンセリングの世界も似ている。
世の常識、当たり前とは、ずれたところに、蘇ってしまう本来の力の鍵が眠っている。

それは、鍵が見つからないのは、カウンセラー自身の持っている「正しさ」が覆いとなってしまうことが多いのではないだろうか。

「正しさ」や「しきたり」、それは善意を羽織った牢獄となりやすいのではないだろうか。
もっとも正しさやしきたりが悪なのではなく、それを見直していける柔軟な姿勢が大切なように思う。それを島田は「考察を深める」と表したのではないだろうか。

追記
魏史倭人伝には、倭人は偉い人が通ると「道をあけ、片膝をつき、手を打ちならす」との記載を見たことがある。

そんなところから柏手の起源があるのかなぁ、とは想っている。神社祭式を作った人々はそのことを知っていたのかも知れない。