田んぼを周り、ニュースを見ていた。
G7が終了し、専制主義対民主主義を歌い上げたと評していた。
10代の頃、フェージングの中、深夜放送を聞いていると、北朝鮮のピョンヤン放送局や中国の北京放送局の電波の方が強く、よくかき消された。
彼らは「アメリカ帝国主義者共」とよくなじっていた。
そのなじっていた内容を今、自らの冠に戴く形になっているということのようだ。
不思議なことなのか、当たり前のことなのか、相手を誹謗、中傷するその内容とは、実は私自身の姿なのだろう。
帝国主義者とは、帝王として支配してくると言うことだろう。専制者に抵抗したかったのが、あの放送内容であり、自らの姿なのだと言いたかった。
しかし、実は、専制者とは自分の姿そのもの。
香港やチベットやウィグルを見れば、『酷い!』と感じてしまう。
民主党政権時、自民党はなんと言っていたか。その言葉のままが、自民党の姿なのだろう。「何でも反対党」とは自民党が野党を攻撃する際の材料だが、大震災の中、その言葉通りの野党だった。
自分の中の認めたくない部分を相手に投影してしまう。哀しいかな、それが幼き状態なのだろう。
投影する内容もまた、自分の姿なのだと気づけるのは、実は真の相手を知ったときなのだ。そう見えてしまっていた自分の姿に直面した時なのだ。エンカウンターグループの中で、よく経験した。
考えたわけでもなく、教えてもらったわけでもなく、「そうだったのか!」と突然、氷解する。
自分の中見たくない部分を引き受けるとは、そんな瞬間なのだ。堰を切ったようにそれは入ってくる。
それは同時に自分の持っていた堰に気づいた瞬間でもある。
そんな経験の中で少しづつ、自分の容量が多くなるのではないだろうか。
相手を悪く見えているその間は、小人と言うことなのだろう。