12人の優しい日本人を語る会の作品を見て、演劇魂が興奮しているのか、守山進のことを書きたくなった。

以前、僕の演劇の先生は守山進。
彼は、戦後の演劇を支えた独りだった。日大芸術学部の一期生で、同期に宍戸錠さんらがいた。卒業後、劇団ひまわりに入り、演出の方へ。演出で賞をもらいながら、俳優養成所の所長もやっていたという。

富山のお父さんが亡くなり、後を継ぐため帰郷。
実家は東町で料亭を営んでいた。東町は富山の花街の一つで高級料亭は東町にあった。桜木町は庶民的な花街で、今は桜木町のみとなった。

富山に帰り、演劇とは離れた人生を人生を歩んでいたが、やはり思いは捨てがたく『守山演劇教室』と言うのを立ち上げられた。

僕は、その旗に集まった独りなのだ。
10代から50代まで多様な人が集まった。

やがてその卒業生で「橋の会」を作り活動した。
守山は、小屋にはこだわらなかった。
今で言うライブハウスのような所や廃業した銀行の後など、空間を探し出し発表を行った。彼にすれば、僕等の力に応じた空間を探し出したのかもしれないし、演劇とはホールではないと考えていたのかもしれない。色々なところでやった。

先に少し話した上市の五位尾での民話語りもその一つだ。山田舎の民家の座敷を場所とした。

魂は、どんな場所にもあわせて顕すことが出来るし、その場所に合わせて魂も本領を発揮する。

路上でぬいぐるみ劇を行ったこともある。
ホールとかにこだわることはない。それは素晴らしいことなのだが、伝えたい感動は、どんな場所でも考え方次第。何かそんな雑草魂を学んだように思う。

20歳代の僕らは、それが理解できず、ホールにこだわり劇団3cmと名乗り、小劇場の小屋を借りて何度か上演した。気持ちはわかるのだろう大きな目で見守ってくれた。

12人の優しい日本人を見る会は、守山先生の演劇と同じだ。状況の中で、出来ることをしよう。
いかなる中でも生きる。
それが演劇の魂なんだと思う。


先週なのだが朝日の海にも寄った。
何人かの人がいたが、皆、下を向いている。
多分、みんな翡翠を探しているようだ。
僕も、少し探してみた。

嵐の後の早朝に確率が高いそうだ。
遅くなると先に拾われてしまう。

もっとも、僕には区別が付かない。