ゼネラリストかスペシャリストかと
昔からよく言われた。

そんなカタコトの難しい言葉は横に置いて、経験的には、「長い人」か「短い人」と感じている。

組織の中では人事異動とかが毎年行われる。
多くは、上の人達はよく異動される。早い人では1年長くても3年。大抵は2年位で、3年になった人は残念そうな顔を一瞬される。

広く経験して学んで育てるゼネラリストとしての教育なのだと聞いたことがある。

確かに広い目で見渡し、判断するというのは大切なことだ。井の中の蛙になって細かなことに拘っていても仕方がないのかもしれない。

ゼネラリストかスペシャリストかと云うのは、そこだけで考えていても仕方がないと思う。

東須磨のいじめ事件とは、このようなゼネラリスト優遇体質の中で育ってきたようにも感じるのだ。

校長さんとはゼネラリストなのだろう。短い期間で転勤され出世されていく。
一方、一般の教員はスペシャリスト。その学校に長く勤めていらっしゃる。バスケットの八村塁選手を育てた坂本さんはいまだに奥田中学校にいる。

ゼネラリストの管理者にとって、その2年を順調に送るのにどうすればいいのだろう。

そこでカポーたちが産まれてくるのである。
坂本さんのようなバスケットに目が向いているスペシャリストたちは放っておいていい、体制に付いてきてくれる。反しない限りやりたいことを遣っておいてもらおう。

しかし、一人ではどうもまとめられるものではない。
そこに助けをもたらしてくれるのがカポーたちなのだ。

そこそこ力や実績があり現場を纏めてくれる。そして私の想いも受け止めてくれる。便利な人たちなのだ。

一方、それでカポーらは虎の衣をかぶることができる。2・3年で何十人ものスペシャリストを束ねられる訳がない。

昔、イギリスの校長先生の学校作りの本を読んだことがある。昔のイギリスでは8年10年は当たり前だったそうだ。その間に一人ひとりと理解を深めあい学校を育てていく。言ってみれば、管理者もスペシャリストのひとりと言えよう。

主任制度だ副校長制度だと、実はゼネラリスト化を進める形で学校は育ってきた。管理化が進み行政化したというのが日本の教育会の姿なのではないだろうか。

教育のスペシャリスト達の組織というのは幻想のように思う。現実の学校は行政の1出先機関どなってしまっている。

橋下さんらのように教育委員会不要論を叫ぶ人たちが居るが、行政化を進化させてきた果ての意見に思う。

本来は、スペシャリストとしての教育を護る為の組織が、力を失っていることを指摘したからの意見なのだ。

教育委員会が本来の働きを取り戻すことが、本当は必要で、無くせばいいの真反対に進まなければ教育は死に絶えるだろう。

教育の本当の意味は、人間の可能性を信じきることにある。そのような存在の中だからこそ、人は人の持つ聖なる力を伸ばしていける。
生身ロボットの製造工場ではない。

もっとも、ほとんどそうなりつつあるからこそ、いじめをはじめとする様々な軋み音が聞かれるのである。

そこを見ずに、給与を払わない条例を通すなど、僕には視野の狭いあほ達がたくさん居るんだなぁと哀しい。まさしく「生身ロボット製造工場」を優等で育った市長さんの街だ。