「名こそ武士(もののふ)」を読む。


昨日のレポートでは9代藩主時代、12代藩主の頃に飛騨天領地の富山藩預かりの話があったと書いたのだが、5代藩主の代にも幕府への働きがあったようだ。この3度の働きかけは、藩の財政改革と呼応しており、幕府の内諾を得ながら、いずれも加賀藩により壊されている。


幕末の富山藩には大きな事件が3件あった。

・蟹江監物の一件(天保5年10月)9代目

・富田兵部の一件(安政4年4月)12代目

・山田嘉膳の一件(元治元年8月)13代目

この本はこの3件を小説にしたものだった。

それぞれ上から

『社鼠を患(うれ)えず』

『是非に及ばず』

『名こそ武士(もののふ)』

の名を持つ3章に区分されている。

それぞれ時の家老であった蟹江監物は政治失脚、富田兵部は切腹、山田嘉膳は暗殺されるという事件を描いたものだ。


簡単に言えば富山藩は改革派の江戸派と保守派の富山派に分かれていて、そのまま富山藩と加賀藩との対立が重なっていた。江戸派は他家(他藩)との交流も多く、幕府内とのつながりも密となる。自然、独立的な思考になっていったのかもしれない。一方、富山派は加賀藩領に挟まれた立地でもあり、思考は加賀を受け入れやすかったのかも。

江戸派なりの藩改革派?自立派の動きは保守派を通して金沢へ流れる。そして金沢からの目付を受け入れるなどの介入を招く。


富田兵部の話は『是非に及ばず』に描かれ、「迷子石」とは逆の視点から描かれる。富山派からの嘘話を元10代目藩主(大殿)は聞き入れてしまい、金沢に相談し、改革を進めようとする現12代目藩主と富田兵部は金沢藩の裁断で処分されることとなった。以降、金沢藩士が目付として送られ、富山藩は独自の考えは失うこととなった。


私が軽蔑している林太仲が山田嘉膳暗殺に出てくる。主人公は島田勝磨と言う真っ直ぐな質の若者。誘われて林太仲のグループに入ったばかりに、家老山田嘉膳の暗殺を実行させられる。簡単に言って真っ直ぐな故に騙されたわけなのだが、仲間の名を語らず我が身独りで請負う潔さを描いた形で話は終わる。私からは、林太仲は相変わらず軽挙妄動な、かつ卑怯な男に写る。明治に入り、この男が富山の文化伝統を悉く破壊し尽くすのだ。この本でも「軽挙妄動」と諌めているが、富山はこの軽挙妄動がこれから権力を得ていくのだ。


正直、「迷子石」は小説として面白かった。ただ、この「名こそ武士」はよく調べられており、悪く言えば歴史を繋ぎ合わせたような…しかし何度も読み返したい本だった。江戸期後半の富山藩をイメージするには、この本を薦めたい。


余計なことだが、

富山派が、米と日本の関係にも重なって来るのだが…



参考

富山藩歴代藩主

初代:前田利次(としつぐ)(1617~1674、藩主在位1639~1674年)

2代:前田正甫(まさとし)(1649~1706、藩主在位1674~1706年)

3代:前田利興(としおき)(1678~1733、藩主在位1706~1724年)

4代:前田利隆(としたか)(1690~1744、藩主在位1724~1744年)

5代:前田利幸(としゆき)(1729~1762、藩主在位1745~1762年)

6代:前田利與(としとも)(1737~1794、藩主在位1762~1777年)

7代:前田利久(としひさ)(1761~1787、藩主在位1777~1787年)

8代:前田利謙(としのり)(1767~1801、藩主在位1787~1801年)

9代:前田利幹(としつよ)(1771~1836、藩主在位1801~1835年)

10代:前田利保(としやす)(1800~1859、藩主在位1835~1846年)

11代:前田利友(としとも)(1834~1853、藩主在位1846~1853年)

12代:前田利聲(としかた)(1835~1904、藩主在位1854~1859年)

13代:前田利同(としあつ)(1856-1921 藩主在位1859~1871年)

(*13代藩主・前田利同は、版籍奉還の1869年から廃藩置県の1871年迄は富山藩知事)


真ん中に描かれる林氏が林太仲↓



これらの絵は下記本より↓