あの日は私は千葉の船橋に住んでいて、飲み会があり家に戻ったのがその時刻ぐらいでした。
7時過ぎに電話が鳴り響き、まだ当時は固定電話だったからね。
お友達から(=_=)何言ってるかしばらく理解できず(-_-;)
電話の向こうで「顔あらってこい!!それでも目が明かないなら水浴びてこい!!」と怒鳴っていたので
ようやく「何があった?」というとTVを付けろというのでつけると
そこは火の海が映っていました。
まだ酔っぱらっている私は「バックザフィーチャ!!見に行こう!」というと「いい加減にしろ!!」
と怒鳴られ(・・? 「阪神圏内で大地震が起きたんだよ、実家大丈夫か?」ということが理解できました。
関西にいた頃地震なんて縁がなく関東だけだと思っていたし・・・・
もちいえに電話をかけてももうつながらない!!
えらいことになった!!と焦ってもどうすることもできず気分悪くなり(二日酔い)嘔吐する始末。
TVに食いつき情報をと思うが神戸地方の子としても明石のことは何一つ言わない( ´Д`)=3 フゥ
焦る、気分悪いの繰り返し、電話は鳴りっぱなし友人たちから心配の電話です。
やっと10時過ぎに叔母からの電話で、親族全員無事との知らせが来た( ´Д`)=3 フゥ
後友人たちも心配だけど電話がつながらない(-_-;)焦る・・・
どうすることもできない!!
PCもまだそんなに普及していない時代
頼れるのはTVのみだけど、同じところしか報じないし(´;ω;`)ウッ…
友人と連絡取れてそんな状況だったかを知る。
棚という棚から全て落ちて今片付けている。みんな無事だから!!
と言いながら、あとで(翌日)母の様子も見てきてくれるという感謝しかない。
とにかく関西に行ける方法を探す。途中まで道路は使えるが途中から先が・・・・
一番早く行ける方法を探すが、飛行機も飛んでいない、むろん新幹線も動いていない。
夜寝ることもできずひたすらTVの情報だけを頼りに毎日を過ごしていました。
やっと10日目ごろに、飛行機も飛ぶしそのあともうまく行けそうな情報を得たので即座に飛ぶことに。
羽田→関空→ポーアイ(船で)→兵庫駅(タクシー)→明石(JR)→自宅 三時間弱でついた。
同時に姉も大阪の家から出たのだが、姉は途中電車が動いていなくて移動移動で6時間ぐらいかかり自宅にやってきた。
ポーアイからタクシー並んでいても、大きな携帯持った地上げ屋のような人たちばかり工エエェェ(´д`)ェェエエ工
タクシーからあの高速が横たわっているのを横目で見ながら、道路はめくれ上がり普通に乗車はしていられない状態
あれだけ煌びやかな三宮あたりはセピア色、リュックを担いで歩く人々の群れ
電車から見えたのは、傾いた家から洗濯物がないびいており、涙が止まらなかった。
でも明石につくとそこは別の世界工エエェェ(´д`)ェェエエ工
普通にステーションデパートは開いているし、皆普通( ´Д`)=3 フゥ
でもあとで知ったけど、あちこち家はつぶれ三日間援助もなにもなく途方に暮れたと友人から聞いた。
家はやめぐらいの被害で済んだけど、友人宅は傾いた、ゴルフボールを置くと勢いよく転がっていった。
皆何の援助もなく日々を過ごしている現実に驚いた。
確かに被害は少ないかもしれないけど、何が違う?
同じ被災者なのに(´;ω;`)ウッ…
聞けば甥っ子は震災が起きた時間にすぐに大阪を飛び出し母のところへ向かったそうなぁ。
あの三宮で傾いたビルを通り過ぎてしばらくするとそのビルが倒れていたそうなぁ。
明石の実家についた折は夜中だぅったそうなぁ。
山陰側をまわり岡山のほうから着たそうなぁ。
二次災害に合わすに済んでよかったよ。
どうしてもこの日だけは離れた場所に住んでいてもいまだに不安になる日です。
それから二か月に一度家に戻ることになりました。
来るまで戻ってくると通行止めの道路があちこちありました。
数年たっても空き地が埋まることはなかなかなかったです。
10年という月日が流れ、TV報道では復興しているというが、ひどかった町並みは穴ぽコア居た状態でどう見ても復興しているようには思えませんでした。
またあの時刻が過ぎ去るまで眠れない時を過ごします。
私は忘れることないですね息絶えるまで、あのセピア色の光景を
亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに二度と災害が起きないことを願います☆彡
