未だ心の傷は残ったままです。

あの日私は千葉にいました。飲み会があり家に戻ったのが(-_-;)
地震の時間です・・・・親不孝な娘でごめんなさいm(__)m

友人から7時前に電話で起こされ、何が起きたかを教えられましたΣ(゚д゚lll)ガーン

それからというものは生きた心地しません。
10時過ぎにいとこからの電話で全員無事であることを教えてもらうまで(-_-;)

TVにくぎ付けそれしかまだ情報を得るものがなかったから・・・・
でも、明石の方の情報は全くと言っていいほど報道されない( ノД`)シクシク…

どんな状態なのか?

母一人住むところは大丈夫なのか?

電話で話すだけではらちが明かない状態。

友人に母の様子を見に行ってもらう。すぐに一度帰ってきた方がいいといわれ、帰る手段を探す。
車も途中で道がどうなっているかわからないのでダメ、電車もダメ、飛行機・・・と
10日ほどで確実に行ける方法が見つかり、飛行機→タクシー→電車でとにかく明石に向かう。
姉も来ると連絡あり、大阪からです。
私は3時間で明石に入ることができました。
ところが姉は6時間かかりました。途中徒歩で移動したらしく・・・・

母は元気を装っていましたが、疲れからなのか不安からなのか疲れた顔で出迎えてくれました。

私自身も移動中見た光景が今でも忘れることはできません。
道はでこぼこ道路が壊れています。あの煌びやかな三宮はモノトーンでした。
傾いた家、横倒しの高速道路、破壊したビル・・・・誇りだけが舞い上がって前も見えない状態

デイバックを背負った人たちがたくさん歩いて移動していました。


光を失い色を失った光景に自然に涙が流れ号泣していました。

それから月に一度実家に戻ることを繰り返していました。

私がいるときには余震も起きなくていたが、東京に戻ると余震が・・・・

何の支援も来なかったらしく・・・・明石市周りは・・・
そのころ西友があり開いていたので、食料とかは確保できていました。

即座に母の様子を見に行ってくれた人たちの家やマンションは傾き食器は割れて大変な状況の中動いてくださいました。もちろん片づけ手伝いに行きました。

うちの家も屋根が壊れたので直しましたけど、補助金は・・・・でません!


それ以来母は夜パジャマに着替えることはありませんし、着替えさせないです。
今はもう着替えますけどね。
母曰く、即座に飛び出せるようにと言ってました。

今は駐車場にお水とか必要最低限を置いています。


多くの方が犠牲になり亡くなられた。忘れてはいけない日です。
そして語り継がれなきゃいけないでもあります。
うまく書けないけど・・・・


犠牲になられた方々のご冥福をお祈りして黙祷