1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒淡路島北部沖の明石海峡を震源としての兵庫県南部地震が発生した。

近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区)の被害の様子は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。

1995年1月25日の政令により激甚災害法(激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律)に基づく激甚災害に指定。



この日私は千葉の船橋に住んでいて、千葉でお友達になった人と朝まで飲み歩いていました。
ちょうど家に戻った時間が地震の起きた時間ぐらいです(; ̄ェ ̄)

眠っていたら電話で起こされました。
友人からです「おい!!お前の実家大丈夫か?」
寝ぼけながら「(つд⊂)?ただいま酔っぱらい中で#´ω`)ネモイ・・・」
友人はヽ(`Д´)ノ「いいからTVつけろ!!ヾ(‐‐)オイ」
私は寝ぼけながらTVを付け「\( ´ω` )/燃えてる!映画?Back to the Future見に行く?」
とわけわかんない言葉を・・・・

友人は激怒「シャワー浴びて来い!!大変なことが起きてるんだぞ!!!!!」
「また後で電話する!!とにかく目を覚ませ( `°罒°)ムキー」電話を切られた。


┐(-。ー;)┌ とにかく冷たい水で顔を洗いTVを見た。


( ̄Д ̄;) ガーン やっとやっと何が起きているのかがわかった?いや・・・把握できない状態
でも大変なことになってるということが理解できた。

それからはTVに食い入る。実家に電話をかけるが・・・かからないパンク状態・・・
どうすることもできない・・・

電話の嵐・・知り合いからの電話

だが実家や姉たちがどんな状態なのか情報がない|||||/( ̄ロ ̄;)\|||||||
どこからも明石の情報は得ることができない。

今の時代のように携帯もまだ普及されていないし、パソコンも普及していない!
TVでしか情報を得ることはできないが、どこのTV局も同じ映像ばかり・・・┐(-。ー;)┌

10時過ぎにいとこから電話が入り、家族&親族の生存確認は出来たのこと!( ゚д゚)ホッ!

急に酔が回り嘔吐、それでも嘔吐しながらTVに食い入る。

甥っ子が地震直後「おばァーちゃん心配」と車で飛び出して大阪から明石へ向かったそうです。
甥っ子も車で向かい、この地震の現状を知り震えたそうです。
バックミラーで見たビルの崩壊( ̄Д ̄;) ガーン恐怖に震えたそうです。
無論道なき道を走り岡山経由で明石についたのは地震発生から8時間は等に超えていたそうです。

母曰く「逆に迷惑!もし二次災害に巻き込まれたらどうやってさがすんだヽ(`Д´)ノ」と

確かにね。毎日電話で母の体調を伺っていました。ひとり暮らしなので不安だったと思います。

私がやっと様子を見に行けるようになったのは1週間後?10日後?14日後ぐらいでした。
友人が調べてくれて飛行機で関空まで行き、そこから高速船でポーアイか神戸につくと教えてくれました。空港に確認し即座に予約入れました。

その間にも友人が母の様子を見に行ってくれて「戻ったほうがいいよ」と電話をくれました。

関西の空港に降りたら、大きな携帯を持った怪しげな方がたくさんいました。
私以外といっていいほど・・・
ポーアイからタクシーで神戸までタクシーで移動ヽ(;▽;)ノまともに走れないような道・建物の崩壊!高速道の横倒し・・・・

私の知っているきらびやかな神戸の街ではなく戦争後のように街は白黒セピア色に見えました。
人々はリュックを背負い下向きに黙々と歩いていました。

神戸からは電車が動いていたので電車で移動、その車内から見る景色に涙が止まりませんでした。今にも崩壊しそうな家に洗濯物が・・・今でも思い出すだけで涙が出ます。


明石はお店も開いて普通な感じでした。報道されないわけです。
でもね一歩入ると崩壊した家たくさんありました。救援物資なんて届いていないそうです。
あとから友人たちから聞きました。母にもね。ただうちの方はライフラインは全然OKだそうです。ただ母は電話の受話器が上がっているのに気がつかなかったそうです(ーー;)

私が実家にいるあいだ大きん地震は起きませんでしたが、常に小刻みに揺れていました。

それ以来気象情報や地震情報に敏感になってしまいました。

そしてこの日だけは未だに怖いです。

復興とは?とても疑問感じます。未だにあの時のままの空き地もあります。
そして心も・・・

忘れてはいけない!語り継がなきゃいけない!私はそう思います。
何もできないけど、毎年日記に書いてゆきます。これからも。

亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします☆彡