http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20131113org00m010002000c.html


最初に私の原発ゼロ発言への批判に反論したい。代案を出さずに発言をするのは無責任で楽観的だという批判だが、原発問題は広くて大きくて深い問題だ。国会議員だけで代案を出そうとしてもなかなか(結論が)出る問題ではない。ましてや私一人では不可能だ。政治で一番大事なのは方針を示すこと。原発ゼロという方針を政治が出せば、専門家や官僚が必ずいい案を作ってくれる。

 何年かけてゼロにするのか、再生可能エネルギーをどう促進していくか。廃炉の専門家をどう確保するか、原発ゼロになったあとの地域の発展をどう考えるか。そういう広範囲な問題が残る。一政党、一議員で(答えを)出せるわけがない。専門家の知恵を借り、その結論を尊重して進めていくべきだ。もう一つは、原発ゼロにすれば燃料の輸入量が上がり、電気料金は高くなり、二酸化炭素(CO2)排出も多くなるとの批判だ。しかし、日本は時代の変化を読むことに非常に敏感だ。先日、数年以内に燃料電池車が実用化されるという話を聞いた。国内外の自動車会社もハイブリッドの電気自動車を必死に開発している。

 LEDもそうだ。設置費が高くても、「省エネの観点からLEDがいい」と。太陽光パネルと輻射(ふくしゃ)式冷暖房を導入した新本社で、旧本社時代に比べCO2排出量を70%削減した企業もある。

 原発ゼロにして原発建設に向けた費用をふり向ければ、水力や太陽光、風力、地熱とさまざまな代替エネルギーの開発が進む。その技術を日本企業は持っている。またそういう企業に日本国民は、少々高くても協力する。

 一番の批判は、核廃棄物の処分方法は技術的に決着していて、問題は処分場が見つからないことだというものだ。そこまでは私の考えも一緒だ。だが、ここからが(原発)必要論者と私の違うところだ。彼らは「(処分場選定の)めどを付けるのが政治の責任だ」と言う。付けられると思う方が楽観的で無責任だ。東京電力福島第1原発事故の前に見つけることのできなかったものを、事故後に見つけだせるというのが必要論者の主張だ。

 この前、(フィンランドの)オンカロに行ってきた。世界で唯一原発から出る核の廃棄物を処分する場所だ。首都ヘルシンキから200キロ超、地下400メートルの岩盤をくりぬいた場所にある。縦横2キロ四方の広場に、円筒形の筒に入った核のゴミを埋める。容量は原発2基分だそうだ。フィンランドは原発を4基持っている。残り2基分の処分場所はまだ決まっていないとのことだった。オンカロもまだ最終審査が残っている。なぜかというと、岩盤から水が漏れている。10万年もつか調べなければならない。日本はどうか。400メートル掘らないうちに水なんてしょっちゅう出てくる。温泉が出てくる。

 放射能には色がない。においがない。10万年後の人間がオンカロに来たときに「何だこれ」と思って(核廃棄物を)掘り出そうとしないように(警告のため)どんな文字を使えばいいのか、考えられている。笑い話ではない。福島事故前にも見つからなかった処分場を、必要論者たちは、早く選定して建設しなさいと言っている。

 安倍晋三首相が今、原発ゼロを決断するのに、こんなに恵まれた環境はない。私が首相在任中の郵政解散は「追い込まれ解散」だった。野党も反対、与党も反対、まさに乾坤一擲(けんこんいってき)。やってみないと分からなかった。比べて今、どうか。野党は全部、原発ゼロに賛成。反対は自民だけではないか。本音を探れば、自民議員も賛否は半々だと思っている。もし安倍首相が「原発ゼロにする。自然を資源にする国家を造ろう」と方針を決めれば反対派は反対できない。必要論を唱えるマスコミも変わる。

 国民から与えられた権力を望ましい、あるべき姿に向かって使うことができる。こんな運のいい首相はいない。国家の目標として、ほとんどの国民が協力できる体制ができる。全政党が賛成し、提案だって野党からいろいろ出てくる。識者からいろんな知恵が出てくる。できるんだ。夢のある事業だ。政治の出番だ。首相に期待している。結局は首相の判断力、洞察力の問題だ。うかうかしていると、米国が先を越して脱原発と言い出す。安倍首相には、大きな権力を多くの国民が協力できる壮大な事業に使っていただきたい。

 歴史をみると、すさまじいピンチを日本は乗り越えてきた。関東大震災は90年前。第二次世界大戦で300万人以上が命を落とした。それでもくじけなかった。最大の敵・米国を最大の味方にして、今日の平和国家を造った。東日本大震災のピンチをどうチャンスに変えるか。震災のピンチを国民の望む方向に持っていく権力を、安倍首相は持っている。望ましい方向、夢のある方向だ。それを理解していただきたい。