アメリカは賢いですね。


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(抜粋・要旨)
清朝末期の義和団の乱は、1901年09月に北京議定書が締結されて終結した。賠償金は4億5000万両で、39年分割払い、年利4%で、利息を含め総額9億8000万両に達した。清朝の年間歳入8800万両の11倍だった。1904年、駐米清国公使であった梁誠は、米国国務長官ジョン・ヘイの米国に対する賠償金が多すぎるという発言をとらえ、米国政府に賠償金の減免を働きかけるとともに、1905年05月には清国外交部に対し、返還される賠償金を教育に当てると米国政府に表明するよう求めた。
 こうした中で、1906年、米国イリノイ大学学長ジェームス・エドモンド(American Academy of Political and Social Scienceの初代会長)は米国大統領セオドア・ルーズベルトに対し、知識面、文化面で中国支配を進め、米国文化が広がった上で商業的メリットが開花するので資金を投じるべきであると進言している。米国人宣教師スミスもルーズベルトに接見し、賠償金返還を教育に充てるよう求めている。
 1907年、ルーズベルトは議会に賠償金の返還法案を提出した。対米賠償金未払い1,078万ドルを1940年までに月払いで返還、中国人学生の渡米留学に充てることが定められた。
清朝政府外務部は、最初の4年間で毎年100人、5年目から返還終了まで毎年最低50人の学生を派遣することを米国に通達した。外務部尚書の袁世凱は「派遣游美学生規定草案」で、留学生の8割は工業技術など理系、2割が法律、政治を学ぶともに、留学訓練学校の設置が定め、清華大学の前身が萌芽する。
 1909年、宣統帝は米国留学の詳細を批准し、北京に「游美学務処」を開設して留学生の選抜・派遣を行い、「肄業館」を附設し、留学生候補の教育を行うと定めた。肄業館はアメリカの学校をモデルとし、20歳以下を100人、15歳以下を200人、合計300人を収容すると決められた。游美学務処は、同年、最初の留学生選抜を行い、47名が米国に渡った。1910年に第2回選抜を行い、70人が渡米。肄業館への選抜試験も行われ、143人が入学許可を得た。これ以外にも2回の試験が行われ、第一期生468人の入学が決まった。
 1909年09月に清朝の庭園であった清華園の一部を游美学務処にわたし、肄業館を建設することが決まった。その後、1911年春に肄業館を開校することと、名称を「清華学堂」とすることが決められた。
 1911年4月29日、清華学堂は正式に開学。1912年に中華民国が成立すると、5月に清華学堂は再開。10月に清華学校と改称された。1928年には南京政府により国立清華大学と改称されたが、この時期には中国文学、政治学、物理学、化学など14学系を擁する総合大学となっている。