「低俗」と蔑まれた広東語の歌が、いかにして世界を動かす文化になったのか。1950年代から現在まで、誰も語らなかった香港カルチャーの真実。

by Andy Chum(アンディ・チャム) | 香港出身・言語講師

 

「香港映画って、なんか人間くさくていいよね」── ある日本人の友人がそう言った。その一言が、ずっと頭に残っている。完璧じゃない。洗練もされていない。でも、どこかリアルで、魂がある。それが香港カルチャーの本質だと、私は思う。

香港というのは、不思議な街だ。面積は東京都の約半分。人口は約740万人。それだけの小さな都市から、世界が熱狂するカンフー映画が生まれ、アジアを席巻するポップミュージックが生まれ、ウォン・カーウァイのような唯一無二の映画監督が現れた。なぜか? その答えは、歴史の中に隠れている。

「低俗」と呼ばれた言語が、文化の主役になるまで

多くの人が知らない事実がある。1970年代に入るまで、広東語のポップソング──いわゆる「カントポップ」──は、香港社会の中で「低俗なもの」とされていた。

 

戦後の香港では、旧上海から流入した映画・音楽関係者が北京語(上海語)の芸能文化を持ち込み、それが「洗練されたもの」として幅を利かせていた。電影会社「電懋」が制作した北京語映画のスター、葛蘭(グレース・チャン)はその象徴だ。また1964年のビートルズ香港公演以降、若者の間では英語バンドを結成するブームも起きた。許冠傑(サム・ホイ)が後に率いる「The Lotus」も、もともとは英語バンドだった。

 

加えて、『星報』紙が1960年から主催した歌唱コンテストには「歐西歌曲」(英語曲)と「國語時代曲」(北京語曲)の部門はあったが、広東語で歌う部門はなかった。そもそも広東語のポップソング自体が、公式に「存在しないもの」として扱われていたのだ。

香港のポップカルチャー研究者は、1970年代以前のこの時代を「Days of Being Marginalised(周縁化の時代)」と呼ぶ。マジョリティの言語が、その街の文化の中心から排除されていた、という皮肉な時代だ。

 

🎵 この時代の代表的な「低俗」ソング

 

1958年、Frank Sinatraの〈Three Coins in the Fountain〉を広東語にカバーした〈飛哥跌落坑渠〉(お兄さんが溝に落ちた)。元のロマンチックな歌詞は、下水道に落ちた不良少年を笑う内容に変えられた。原曲とのギャップが「いかにも広東語らしい」と、後の世代には愛されている曲だ。

1974年──カントポップが「生まれた年」

転機は1974年に訪れた。この年は単なる偶然ではなく、香港社会全体が大きく変わった節目だった。

  • 1974年マクルホース総督のもと、廉政公署(ICAC)が設立。警察の汚職を本格的に取り締まる時代へ。
  • 1974年公用語条例が改正され、中文(広東語を含む中国語)が英語と並ぶ公用語に。
  • 1974年TVBの時代劇ドラマ『啼笑因縁』の主題歌〈啼笑因縁〉が大ヒット。「カントポップ元年」とされる。
  • 1974年許冠傑(サム・ホイ)が広東語フルアルバム『鬼馬双星』をリリース。広東語音楽の地位を変えた。

〈啼笑因縁〉には、注目すべき「ミスマッチ」があった。作詞は伝統劇・粤劇の雰囲気を持つ古風な言葉、作曲はバークリー音楽院卒の顧嘉煇(ジョセフ・クー)による中西融合の音楽、そして歌い手はもともと英語歌手として活躍していた仙杜拉(サンドラ・ラン)。その「不釣り合いな三者の融合」こそが、香港らしさだった。

 

後に研究者はこう評した──「西中融合の絶妙なバランスが、それまでの広東語歌謡のイメージを一変させるヒットになった」。香港の作曲家ジェームズ・ウォン(黃霑)は晩年、「70年代に入ると、香港人の自我意識にも変化が生まれ、母語への差別も徐々に減り、社会がより寛容になっていった。そしてついに〈啼笑因縁〉という一曲が香港流行曲の路線を変えた。香港人は自分独自の声を見つけたのだ」と書き残している。

 

「香港人は自分独自の声を見つけたのだ。」

 

── ジェームズ・ウォン(黃霑)、カントポップ史家・作詞家
 

同じ1974年、英語バンドのフロントマンだった許冠傑(サム・ホイ)は、兄の許冠文(マイケル・ホイ)と共に人気コメディ番組でスターになり、広東語コメディ映画でヒットを飛ばし、そして広東語フルアルバムをリリースした。アルバムに収録された〈鐵塔凌雲〉は、エッフェル塔も富士山も自分の故郷にはかなわないと歌う曲で、「香港人」という自意識が芽生えはじめた時代の象徴として今も語り継がれている。

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黄金時代の映画──「香港ニューウェーヴ」が世界を変えた

音楽と映画は常に、香港カルチャーにおいて一体だった。1974年、許冠文・許冠傑兄弟の映画『鬼馬双星』(邦題:Mr.BOO!ギャンブル大将)が大ヒット。当時、北京語映画に押されてほぼ消滅状態だった広東語映画の興行収入を、このコメディがただ一本で年間1位に押し上げた。「笑いで文化を救った映画」とも評されている。

 

80年代に入ると、いよいよ香港映画は世界に飛び出す。ジャッキー・チェン、サモ・ハン、ユン・ピョウ──「三兄弟」のカンフー・コメディアクションは、ハリウッドにはない身体表現と笑いで世界中を熱狂させた。ジョン・ウーは「男の友情と銃撃の美学」で映画史に名を刻み、後のアメリカ・ハリウッド映画に多大な影響を与えた。

 

🎬 注目作:『男たちの挽歌』(英雄本色、1986年) / 監督:ジョン・ウー

主演:レスリー・チャン(張國榮)、チョウ・ユンファ(周潤發)、ティ・ロン(狄龍)

 

ハリウッドには絶対に出てこない「人間くさい主役」で日本でも大ヒット。チョウ・ユンファのトレンチコート姿がアイコンとなり、この映画が「香港映画ブーム」の火付け役のひとつとなった。日本の若者が広東語に興味を持ちはじめた最初の波のひとつでもある。

 

そして忘れてはならないのが、ウォン・カーウァイ(王家衛)の存在だ。1990年の『欲望の翼』(阿飛正傳)、2000年の『花様年華』(In the Mood for Love)──彼の映画は「香港」を舞台にしながら、上海の過去への郷愁や、1997年の返還への漠然とした不安を、セリフではなく映像と音楽と沈黙で語った。

 

『花様年華』のタイトルは、戦前上海のスター歌手、周璇の名曲〈花樣的年華〉から取られている。舞台は香港だが、上海の記憶がその底に流れている──これが「ごちゃ混ぜ」の都市、香港にしか作れない映画だ。

 

💡 字幕では伝わらない「香港の記憶」

2024年に日本でも大ヒットした『九龍城砦之囲城』(トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦)。この映画に、主人公たちが許冠傑の1985年の名曲〈最緊要好玩〉をカラオケで歌うシーンがある。ただの「懐かしの一曲」ではない。「囲まれた城砦の中で、かつて香港人が最もよく歌った歌を歌う」という文脈が、香港人の観客の胸に刺さる。こういう「見えないレイヤー」が、広東語と香港文化への理解があると初めて感じ取れる。

「香港文化は死んだ」──2000年代の静かな危機

1997年の中国への返還。この出来事は、香港のポップカルチャーにどんな影響を与えたのか。

 

実は「低迷」の原因は返還そのものよりも、それ以前から始まっていた。香港映画の興行収入は1993年をピークに落ち始めており、背景にあったのは独占上映契約の崩壊と、シネコンの普及による輸入映画との競争激化だった。音楽面でも、海賊版の普及と台湾・韓国の音楽産業の台頭により、香港の音楽業界の売上は1995年をピークに急落していく。

 

さらに興味深い指摘がある。1980年代の香港では、日本の楽曲に広東語歌詞をつけた「カバー曲」が非常に多く作られていた。1990年代初頭の時点で、香港発の新曲のうちオリジナル曲は2、3割ほどだったとも言われる。その後、カバー曲のラジオ放送が規制されると、今度は似たようなバラードばかりが量産されるようになり、音楽の多様性が失われた。「好心做坏事(良かれと思ってやったことが逆効果)」と評されるこの政策の失敗が、カントポップの衰退を加速させたという見方もある。

 

🎵 時代を映す鏡:〈黎明不要來〉(来るな夜明けよ) / 葉蒨文(Sally Yeh)

1987年 / 作詞・作曲:黄霑

人間と交際する幽霊が「夜明けよ来るな」と願う曲。一見ラブソングだが、作詞家の黄霑自身が後に「紅い太陽の一節には、中国返還を前に海外への移住が相次いでいた香港住民の状況を風刺する思いを込めた」と語っている。当時の香港人の不安と希望が、隠喩として溶け込んだ名曲だ。

 

2000年代、内外から「香港映画は死んだ」「香港の音楽業界は死んだ」という言葉が聞かれるようになる。確かに量的な意味での黄金時代は終わった。しかし、この時代の危機感こそが、その後の「復活」の種を蒔いていた。

九龍城砦の「本当の物語」──誤解されてきた場所

日本では「九龍城砦(クーロン城)」は、ゲーム・漫画・アニメを通じて「無法地帯の迷宮都市」「一度入ったら出られない」というイメージで広く知られている。しかし、実際の九龍城砦は、そのイメージとはかなり異なる場所だった。

 

その歴史を簡単に辿ると──16世紀から17世紀には明朝の船が停留し、1810年には砲台が設置された。1842年の香港島割譲後も、九龍城砦だけは清朝が管轄権を持ち続けた。1899年のイギリスによる新界租借後も、条例の文書上は九龍城砦を清朝が保持するとされていたが、イギリス軍は1899年に清朝の役人を駆逐し接収を試みた。しかし完全な接収には失敗し、この「どちらの管轄でもない」という法的な空白が、戦後の複雑な状況を生む原因となった。

 

日本占領期(1941〜1945年)に城壁が撤去され、戦後は大陸からの移住者が急増し、「三不管」(中国政府・香港政府・イギリス政府の誰も直接管轄しない)の無法地帯と化した。1950〜60年代には黒社会が幅を利かせた時期もあった。しかし見落とされがちなのは、その西側エリアには普通の家族が暮らし、1963年からは住民による「九龍城砦福利会」という自治組織が学校・歯科・食堂を自分たちで運営していたということだ。

 

1993年の取り壊し直前、城砦に住んでいた人々を記録したドキュメンタリーや写真集には、「ここは家だった」と語るお年寄りの声が残っている。5万人が暮らした場所の記憶は、今も消えていない。

 

🏙️ 香港映画の中の九龍城砦

2024年の映画『九龍城砦之囲城』は、城砦取り壊し前夜の1980年代を舞台にした作品。しかし実は1979年のTVBドラマ『網中人』には「阿燦」という大陸から渡ってきたばかりの人物が登場し、香港の都市的・資本主義的ライフスタイルに不慣れな大陸出身者を指す俗語として使われるようになった。こうした「外から来た人」の描写は、「香港人」というアイデンティティの鏡だった。

2020年代の復活──MIRRORとカントポップの「第三の波」

2020年、香港版国家安全維持法(国安法)が施行された。言論の自由は大幅に縮小され、反体制メディアは廃刊に追い込まれ、映画の審査には「国家安全に不利とならないか」の基準が追加された。多くの人が香港を離れた。

しかし──そんな状況の中で、音楽と映画の産業は意外なほどの「復活」を遂げた。

 

その中心にいるのが、男性アイドルグループ「MIRROR」だ。2018年のオーディション番組から生まれた12人組のダンス&ボーカル&ラップグループで、K-POP的なフォーマットを纏いながら、広東語の楽曲と香港のローカル文化への強い愛着を持つ。2021年に突如ブレイクし、ファンによる熱烈な「推し活」は大きな経済効果をも生んだ。

 

さらに重要なのは、国外に移住した香港人コミュニティにおいても、カントポップが新しい意味を持ちはじめていることだ。2021年、ロンドンに移住した在外香港人に向けて、複数のアーティストが「別れ」「ホームシック」「残る人への気持ち」を歌う曲を発表した。RubberBandの〈Ciao〉、C AllStarの〈留下來的人〉──これらは、別れを告げる歌であると同時に、「それでも広東語で歌い続ける」という静かな宣言でもある。

 

ロンドンで音楽賞を受賞した作詞家・黄偉文は、授賞式にリモート出演しこう語った。「どこに身を置こうとも、いったい何が起きたのだとしても、私が愛する街のために作詞ができることを光栄に思います。もう以前のように出かけ、皆さんと一緒に飲んで語らうことは叶わないかもしれません。しかしカントポップがある限り、歌声の中にある宇宙で、きっと私たちは会えるでしょう。必ず会いましょう。」

 

「カントポップがある限り、歌声の中にある宇宙で、きっと私たちは会えるでしょう。」

── 黄偉文(Wyman Wong)、香港の作詞家 / ロンドンにて

なぜ、今「広東語」を学ぶのか

香港人の98.1%が「日本が好き」と答える(2020年調査)。日本人の香港への関心も根強く、かつては海外旅行先ランキング6位に入っていた。しかし「広東語を学んでいる日本人」は非常に少ない。

 

広東語は、世界に約8000万人の話者を持つ言語だ。香港だけでなく、マカオ、広東省、そして世界中のチャイナタウン──ニューヨーク、バンクーバー、ロンドン、シドニーのチャイナタウンでは、実は北京語よりも広東語の方が広く使われている。英語・北京語・広東語をすべてこなせる人材は、ビジネスや国際交流の場で圧倒的な強みを持つ。

 

そして何より、広東語を知ることで「見えなかったものが見える」。映画の字幕に書かれない微妙なニュアンス、歌詞の裏に隠された香港の記憶、コードスイッチングが生む独特のユーモア──それらすべてへのアクセス権が、広東語を学ぶことで手に入る。

 

香港のカルチャーは、「低俗」と蔑まれながらも自分たちの声を見つけた。返還後の不安の中でも、映画と音楽で時代を記録した。国安法のもとでさえ、歌声の中に希望を見出した。その強さと美しさに触れるために、広東語という言語は最高の入口だ。

 

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