今日、いい話を聞きました。
それは「論理的と屁理屈の違い」。
近頃、論理的思考、つまりロジックという言葉が大はやり。
猫も杓子もロジック、ロジック。
でも、ある人が言ってました。
「みんな論理的という言葉を勘違いしている」と。
では、論理的と屁理屈の差って分かります?
それは、「建設的かどうか」ということ。らしいです。
つまり、何かをやることを前提とした上で
ロジックを展開しているのかどうかということ。
それは、逆に言えば、
やりたくない理由をいくら論理的に述べても
それは屁理屈でしかないということ。らしいです。
これが大きな違いだそうです。
ボクはよく「屁理屈をこねて!」といわれますが、
実はどうしたらできるかを論理的に話してるだけで、
やれない理由を論理的に述べてることはあまりありません。
だって、どんなに理屈をこねてもやりたくないものはやりたくないだけだし。
つまり「嫌」という感情が先立つ。
逆にどうしたらやりたいことを実現できるかを話してるときは、
道筋を論理的に解明したくなるんで、理屈っぽくなる。
それがやりたくない人にとっては、耳障り、つまり屁理屈に聞こえる。
でも、それは決して屁理屈じゃないんです。屁理屈っぽいけど。
自分は間違ってなかったんだ!と思った瞬間でした。
それは「論理的と屁理屈の違い」。
近頃、論理的思考、つまりロジックという言葉が大はやり。
猫も杓子もロジック、ロジック。
でも、ある人が言ってました。
「みんな論理的という言葉を勘違いしている」と。
では、論理的と屁理屈の差って分かります?
それは、「建設的かどうか」ということ。らしいです。
つまり、何かをやることを前提とした上で
ロジックを展開しているのかどうかということ。
それは、逆に言えば、
やりたくない理由をいくら論理的に述べても
それは屁理屈でしかないということ。らしいです。
これが大きな違いだそうです。
ボクはよく「屁理屈をこねて!」といわれますが、
実はどうしたらできるかを論理的に話してるだけで、
やれない理由を論理的に述べてることはあまりありません。
だって、どんなに理屈をこねてもやりたくないものはやりたくないだけだし。
つまり「嫌」という感情が先立つ。
逆にどうしたらやりたいことを実現できるかを話してるときは、
道筋を論理的に解明したくなるんで、理屈っぽくなる。
それがやりたくない人にとっては、耳障り、つまり屁理屈に聞こえる。
でも、それは決して屁理屈じゃないんです。屁理屈っぽいけど。
自分は間違ってなかったんだ!と思った瞬間でした。