シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて〜その215〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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ホツマツタヱ10アヤの解説です。

◎大見出し

■Part1 10-1〜10-9 カシマタチの時代背景
■Part2 10-9〜10-18 アメワカヒコの死と鳥の殯
■Part3 10-18〜10-23 相聞歌で縁結び
■Part4 10-24〜10-35 カシマタチと釣り鯛
■Part5 10-36〜10-43 オホナムチ復活
■Part6 10-43〜10-53 身添ぎの輪



今回は、Part5、オホナムチ復活をやります。

◎小見出し

■1 10-36〜10-37 コフノトノの論功行賞
■2 10-37〜10-41 ウツシクニタマ オホナムチ
■3 10-41〜10-43 ミマゴオマモリ タテマツレ





■1 コフノトノの論功行賞

10-36 こふのとの まつりおとりて コフノトノ マツリオトリテ 【(キミは)コフ・ノ・トノで】、【奉り言(ここではカシマタチの顛末の報告)を聞き】、
10-36 みことのり なんちフつぬし ミコトノリ ナンチフツヌシ 【勅を発しました】。【ナンチフツヌシ、汝フツヌシよ】
10-36 アわうわの とふるみちひき アワウワノ トフルミチヒキ 【ア〔敬〕ワ(御家)・ウワ(中心地)・ノ、家洲の秩序が】、【トフルミチヒキ、問われた時・優れた指導力を】
10-36 さかんなり またみかつちハ サカンナリ マタミカツチハ 【サカンナリ、発揮することができました】。【またミカツチは】
10-37 かしまたち いつおアらハす カシマタチ イツオアラハス 【カシマタチ、カのシマの断罪にあたって】、【イツオア〔敬〕ラワス、稜威をあらわす(枕)】
10-37 ものゝべの なんたやわらに モノノベノ ナンタヤワラニ 【モノノベノ、モノベ衆の】【ナンタ・ヤワラ・ニ、涙・柔ら・に、無念を柔し】
10-37 もとすより たまふかんへハ モトスヨリ タマフカンヘハ 【モトス・ヨリ、分裂を収め、統一を維持したので】、【タマフ・カンヘ・ハ、賜う守部は】
10-37 かしまかみ ときにまつらふ カシマカミ トキニマツラフ 【カシマカミ、カシマ守でした】。【トキニ・マツラ・フ。この時に・服らった】


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キミは、コフノトノで、【奉り言(ここではカシマタチの顛末の報告)を聞き】、
10-36    みことのり なんちフつぬし    ミコトノリ ナンチフツヌシ 【勅を発しました】。【ナンチフツヌシ、汝フツヌシよ】
10-36    アわうわの とふるみちひき    アワウワノ トフルミチヒキ 【ア〔敬〕ワ・ウワ・ノ、家洲の秩序が】、【トフルミチヒキ、問われた時・優れた指導力を】
10-36    さかんなり またみかつちハ    サカンナリ マタミカツチハ 【サカンナリ、発揮することができました】。【またミカツチは、カのシマの断罪にあたって、モノベ衆の無念を柔し、分裂を収め、統一を維持したので、賜う守部は、カシマ守でした。
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ここで、モノベ衆とは、オホナムチの子等、親族の181人で、あらゆる分野の知識・技術・文化・学問・技芸を持ち、後世の侍(さむらい)に相当する一団です。
この一団がオホナムチの一族を護り導いているのです。
けっして無軌条な武力集団ではありません。
このグループが、出雲の八重垣臣(やえがきとみ)として集っていたのですから、いかに蛮勇に優れたタケミカツチとても、大きなイクサを考えることなど無かったのです。

「アワウワ」の詳解は、私の思いつきでやったのではなく、正書法から浮かび上がってくる構造なのです。
これまでの解説から、「アワ」が地方の「御家」を意味することはご理解いただけたと思いますが、それに対比する「ウワ」が中心地であるというのは戸惑うかもしれません。
正確に言えば中心地にある「家」なのです。

アメ族の「家」という概念は、同族のなかでトミ・タミのどちらにもあてはまり、単純な封建体制ではありません。
トミ・タミは補完関係にあり、家族なのです。
冷たい主従関係ではなく、まして主人と奴隷でなど無いのです。
かつて、シベリア組を悪用して、生き残りを図ろうと画策していたEG(故飯山一郎氏)などという、「古来、世界のどこでも、タミには一切の権利など無い」などと放言してはばからない輩がおりましたが、とんでもない勘違いでした。(EGはすでに、彼の仲間の手によって粛清済です)

私がアメ族に注目しているのは、「平和な社会構造」を目指していたからなのです。
すぐには理解できないかもしれません、「アワウワ」は、周辺の貴人の家と中心地のタミの家であるという対比で、クシミカタマが織り込んであるアメ族の普遍的な概念なのです。
アメ族は中華大陸に居た当時から、この考えかたで社会を運営してきました。
じきに、18アヤの解説をするときに詳解することにしますので、もうすこし考えあぐねていてください。
橋頭堡の原理で戦略的に考えると、哲学ぬきに理解できると思います。


これは橋頭堡の原理に他なりません。

そんなわけで、オホナムチ一家が移住した先は、当時、日隅(ひすみ)とよばれていた津軽地方でした。

■2    ウツシクニタマ オホナムチ

10-37 かしまかみ ときにまつらふ カシマカミ トキニマツラフ 【カシマカミ、カシマ守でした】。【トキニ・マツラ・フ。この時に・服らった】
10-38 おほなむち モゝ※ヤソかみお オホナムチ モモヤソカミオ 【オホナムチは】、【モモ・ヤソ・カミ・オ、180人の御上を】
10-38 ひきゐきて まめもヒかげの ヒキヰキテ マメモヒカゲノ 【ヒキヰ・キテ、統率してきて】、【マメ・モ・ヒ〔日〕カゲ・ノ、報われない陰の】
10-38 なんたアり たかみむすビの ナンタアリ タカミムスビノ 【ナンタ、涙・ア〔敬〕リ、苦労があった】。【タカ・ミ・ムスビ〔人〕・ノ、貴・人を・結ぶ・お役目の】
10-38 たゝしゑた ことわりあれハ タタシヱタ コトワリアレハ 【タタシ・ヱタ、糾し・得た、明らかにした】【コトワリ・アレ・ハ、理があったので】
10-39 みことのり たまふアそべの ミコトノリ タマフアソベノ 【言われた】。【タマフ・ア〔敬〕ソベ・ノ、(知行として)賜わったのはアソベ(地名)の】
10-39 アかるみや アフゆおうくる アカルミヤ アフユオウクル 【ア〔天〕・カル・ミヤ、中央を遠く離れたミヤです】。【ア〔天〕・フユ、公職の禄・オ・ウク・ル、アメの公臣としての】
10-39 おほなむち アかるアそへの オホナムチ アカルアソヘノ 【オホナムチは】、【ア〔天〕・カル・ア〔敬〕・ソヘ、副え・ノ、アメを・遠く離れた・アメ族の副え(副都心)の】
10-39 うもとみや つくるチひろの ウモトミヤ ツクルチヒロノ 【ウモトミヤ、大本、中心のミヤとし】、【ツクル・チヒロ・ノ、造る千尋の】
10-40 かけはしや モゝ※ヤソぬゐの カケハシヤ モモヤソヌヰノ 【カケ・ハシ・ヤ、架け橋・や(切れ字)】。【モモヤソ・ヌ・ヰ・ノ、180の・主の・居・に、180人の直参のモノベ達の】、
10-40 しらたてに うつしくにたま シラタテニ ウツシクニタマ 【シラ・タテ・ニ、白・建て、新築・した】。【ウツシ・クニ・タマ、現世の・国・霊とまで言われた】
10-40 おほなむち つかるうもとの オホナムチ ツカルウモトノ 【オホナムチは】、【ツカル・ウ・モト・ノ【津・涸(沼地を干す)・大本の、津軽本宮(で崩御され)】
10-40 かみとなる ホヒのみことお カミトナル ホヒノミコトオ 【神となった】。【ホヒ・ノ・ミコト・オ、ホヒの尊を】
10-41 もとまつり たかみむすびの モトマツリ タカミムスビノ 【モト・マツリ、祀(はふり)主として(神上がりの祭りを行った)】。【タカミムスビ(ここではタカギ)は】


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この時に服らったオホナムチは、180人の御上を統率してきて、報われない陰の苦労もしてきました。
ここには、貴人を結ぶお役目が、明らかにした、背景があります。
オホナムチに、知行として賜わったのはアソベ(地名)のアカルミヤ、中央を遠く離れたミヤでした。
アメの公人としてのオホナムチは、アメ族の副都の中心のミヤとして造った千尋の架け橋で繫ぎ、180人の直参のモノベ達の殿を、新築しました。
現世の国霊とまで言われた、オホナムチでしたが、沼を干拓し、新田を肥やす事業を広く行い、津軽本宮で崩御され、神となり、それまで不遇だった、ホヒの尊を祀(はふり)主として、神上がりの祭りを行いました。
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9アヤの最後の部分で記述されている、技芸に興じ、飲んで騒いで丘に登・・らないか・・連中がモノベ衆で、彼らは統率力のある良識集団に見えます。
その良識集団が、大挙して出雲から別の地方、津軽に移動することになったのです。

岩木山神社(いわきやまじんじゃ)
青森県弘前市百沢字寺沢27
40.621889,140.340611

祭神
顕国魂神(うつしくにたまのかみ)-大国主神
多都比姫神(たつびひめのかみ)
宇賀能売神(うかのめのかみ)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)

岩木山神社はオホナムチが神上がって祀られた、純粋に宗教施設である「霊府宮(たまつみや)」です。

では、在りし日のオホナムチはどこにミヤを持っていたか、といえば、まだ確定していません。
とはいっても、重要な候補地はあります。


これは善知鳥神社(うとうじんじゃ)です。
陸奥湾(むつわん)に面しており、モノベ衆の集散場所としても有用です。
この地の左側に立ち上がる海岸線の部分に外が浜という地名があります。
古い記録では、陸奥湾を囲む浜をすべて、外が浜と呼んだそうです。
縄文時代の終わり頃、アメ族の船団が最初に訪れた時、十三湖に面した部分を内が浜、その外側を包む浜を外が浜、と名付けたのではないかと想像しています。
28アヤには、「ミツヒメマツルソトガハマ」(三姫を祀った、外が浜)というような記述がありますので、ある程度のスコアは獲得していると思われます。

善知鳥神社(うとうじんじゃ)
〒030-1711 青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜50
40.826694,140.742444

祭神
市杵島姫命
多岐津姫命
多紀理姫命
倉稲魂命
宮比命
猿田彦命
海津見大神

それよりも状況証拠として有効なのは、「大鰐(おおわに)」に関する記述がホツマツタヱには有ることです。
オオワニはカモフネよりも大きい船だと考えられ、遺物として確認されているわけではありませんが、地名にのこっています。



ここが「大鰐船の発着する川の駅」であったことを疑うのは論理的ではありません。
オオワニは多数の漕ぎ手によって推進しますので、オホナムチの時代には速度が最高だったのです。
他にも、ホワニ(帆鰐)という記述もありますが、27アヤは信用すべきではないので無視することにします。
そもそも、日本の河川の中流域は帆走できるほど深さも幅も確保できないのです。

そ、そんなぁ、八幡宮なんて、もっと後の時代だろぉがあ、と騒がないでください。
応神天皇といわれる勢力が、全国を簒奪したのは、AD400頃と考えて良いとおもいますが、その時、人気のあったミヤから接収していったと考えるのです。
たとえば、九州宇佐の宇佐八幡など、弥生時代のものが接収されたとするのは極めて合理的です。
その際、元のミヤの主は「比売大神」などといってまとめられ、主祭神は誉田別尊を据えて、「八幡大神」などと称するだけでその地の崇敬を集めることができるのです。
先に紹介したEGなどは、九州から上陸した中華勢力である応神が全国を席巻したのだから、オマエタチのようなタミは従え!と抜かしていたのです。
実際、そのようにダマされて、全国で八幡神社が崇敬されているのです。

オホナムチがキミとして奉言(まつりこと)を聞いたのはここで良いと思われます。
いずれにしても、この地方に「舘」がつく地名が多いのはこの時に180のモノベ衆が移住したので、「シラタテ」と云って新築したミヤが180個以上できたと考えて間違いの無いところです。
「大鰐」が川の駅であったことは、後にここに鉄道の駅ができていることからも明白です。
ここは弥生時代から交通の要衝だったのです。

大鰐町の記事がケッサクです。

大鰐の地名は、
大きな阿弥陀如来像があることから大阿弥陀

大阿弥・大阿尓(おおあみ:大きな阿弥陀仏)が大阿子(おおあね)

室町時代を経て、大安国寺(おおあに)

大姉(アネ=アイヌ語で森林がある谷間)

大浦為信の津軽統一以降は、「大鰐」(大きな山椒魚(サンショウウオ)=鰐が棲んでいた伝説がある)
と伝えられています。

http://www.town.owani.lg.jp/index.cfm/6,106,14,html
まったく、地方自治体って文化の破壊者で、役に立たない。
よほど完璧に事象とマッチしていない限り、アイヌ語を出してはダメです。

ウツシクニタマというのは漢字を当てると「顕国魂」となっているようで、これは、「現人神」のことですが、アメ族の信仰では、人間は天(あめ)から分けくだされた「タマ」と国魂から与えられた「シイ」の結びついたものが「タマシイ」であると考えていたようです。
少し後の概念で「アユキ」に相当する「天神(てんじん)」と、「ワスキ」に相当する「地祇(ちぎ)」の相互作用によって「霊の緒」が形成され、生きた人間が生まれるのだそうです。

つまり、国魂のカミサマみたいに偉いんだなーこりゃ、というわけで、その尊敬の度合いがわかりますね。


■3    ミマゴオマモリ タテマツレ

10-41 もとまつり たかみむすびの モトマツリ タカミムスビノ 【モト・マツリ、祀(はふり)主として(神上がりの祭りを行った)】【タカミムスビ(ここではタカギ)は】
10-41 おヲんこと なんぢものぬし オヲンコト ナンヂモノヌシ 【オ(敬)ヲ〔敬〕ンコト、言われた、ナンヂモノヌシ【汝・モノヌシ(ミムスビの権威に基づき一族の名代として命ずる)】
10-41 くしヒこよ くにつめとらバ クシヒコヨ クニツメトラバ 【クシヒコよ】、【クニ・ツ・メ・トラ・バ、郷里の女を娶ったならば】
10-41 うとからん わがみホつヒめ ウトカラン ワガミホツヒメ 【ウトカ・ラン、(中央の動きに)疎く・ある・らん、疎くなるだろう】。【ワガ・ミホツヒメ、私のミホツヒメを】
10-42 つまとして ヤソよロかみお ツマトシテ ヤソヨロカミオ 【ツマ・ト・シ・テ、妻として】、【ヤソ・ヨロ・カミオ、八十の諸(しょ)守、モノベ衆を】
10-42 つかさとり みまごおまもり ツカサトリ ミマゴオマモリ 【ツカサ・トリ、司り】、【ミ・マゴ・オ・マモリ、御孫(ニニキネ)を護り】
10-42 たてまつれ たまふよろぎハ タテマツレ タマフヨロギハ 【奉れ】。【タマフ・ヨロギ・ハ、賜うヨロギ(の森)現滋賀県安曇川町末広は】、
10-42 なめことの ちくさよろぎの ナメコトノ チクサヨロギノ 【ナメ・コト・ノ、無・事、医療に有用な】、【チ・クサ・ヨロ・ギ・ノ、千草万木、草根木皮の元となる植物の】
10-43 なおたゝす このみやしれハ ナオタタス コノミヤシレハ 【ナ・オ・タタス、分類して名称を記録し医療効果を明らかにする】、【コノ・ミヤ・シレ・ハ、このミヤを活用して】、
10-43 よゝのため やめるおいやす ヨヨノタメ ヤメルオイヤス 【ヨゝ・ノ・タメ、代々の為に】、【ヤメル・オ・イヤス、病人を癒やす】
10-43 みちおわけ よつぎハヒとり ミチオワケ ヨツギハヒトリ 【ミチ・オ・ワケ、草分け(となりなさい)】。【ヨツギハヒ〔一〕トリ、世継はひとり】
10-43 よろきまろ みホヒこのつま ヨロキマロ ミホヒコノツマ 【ヨロキマロでした】。【ミホ〔穂〕ヒコノのツマの】、


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タカミムスビ(ここではタカギ)は言われた、汝モノヌシ,ミムスビの権威に基づき一族の名代として命ずる。
クシヒコよ、郷里の女を娶ったならば、中央の動きに疎くなるだろう。
私のミホツヒメを妻として、モノベ衆を司り、御孫(ニニキネ)を護り奉れ。
賜うヨロギの森、現滋賀県安曇川町末広は、医療に有用な、草根木皮の元となる植物を分類して名称を記録し医療効果を明らかにする、このミヤを活用して、代々の為に、病人を癒やす草分けとなりなさい。
世継はひとり、ヨロキマロでした。
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以前やったときには、クシヒコなんてただの医家だろうと軽くみていたのですが、実は、女系の男子というのがタカミムスビの基本形なので、大中華の記憶を色濃く残しているのです。
つまり、神農の直系の子孫であるというのが重要だったのです。
列島内部に於いても、これが続いていた、というのが驚異的なのです。
つまり、女系として男子の医師を支える家系なのです。
アメ族というのは雨女と晴女の子孫だったのです。


次回もこの話の続きになりますので、アマツヒツギと宰相であるタカミムスビの図解等はその時に。


さて、ホツマツタヱに関するご意見ご要望、いちゃもん、文句、NGのあるかたは掲示板のほうに書いていただければ、うちのヱが対応します。
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