シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて〜その189〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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ダイダラボッチの話の続きです。

毎度おなじみですが、ウチのヱが「何を言っているのかわからん」と言うので、手抜きせずに図解することにしました。

ウツヲというのは、21アヤでは、ニニキネの当時、ニハリノミヤでウツロヰの宮守りをやっていたようなのですが、タミとイザコザを起こして左遷されようとしたところをニニキネとモノヌシの知恵で乗り切ったのです。
24アヤではハラノミヤを開くときにモニュメント造営のため、琵琶湖の湖底の泥をすくって、担いできた、と書かれています。


これはウツヲ、ちょっと感じが若いかも。

その功績でウツヲに「稜威浅間峰(いつあさまみね)」という讃え名を与えた、というのは、ちょっと雑な感じがして、自分でもあまり信じていませんでした。
この讃え名は、山そのものに与えたものでしょう。
そこから派生して峰に作ったミヤが稜威浅間宮(いつあさまみや)ということだと思われます。

峰なら、神を祀るためにヤシロを立てるだろう、というのは普通の感覚ですね。
まあ、儀式的に中央の盛り上がりにその土を撒いた、ということでも良いのでしょう。

最初の頃、八方に池を掘ってその土を池の横に盛り上げた(八峰)だけだと考えていたのです。
真ん中にはミヤを作った、と最初に思ったのですが、巡り巡ってまたそこに戻ってきたというお粗末だったわけです。

そんなわけで、中央に土を盛り上げて、殿を少しでも高くしたいというのがあったのだろうと思います。

そんなこと言ったって、誰が土木工事やるんだよー!と言うかもしれません。
私も初めの頃、「ニハリノタミガムレキタリ」なんて、どんなルートで来るんだよー!、と思ったものです。
挙句の果に、もっとニハリに近いところにホツマクニを作ったんじゃね?と混迷の極みでした。

24アヤに出てきたきた「ニハリノタミ」は、ニハリで5年過ごして、増加した余剰労働力だったのです。
ですから、ニニキネはそのタミを連れて富士の裾野に来ていたのです。
つまり、自前でミヤの開発を行いながら生活の場を整備していったのでしょう。
余剰なのは信心深いタミも同様なのです。
ニニキネは搾取ではなく、タミと、現有するプロパティを共有し、タミを利することにより統治を行っていたというところが特殊なのです。(無論、それが良い悪いの問題でもないのですが)

ニニキネは各地で見狩り(みかり)を行い、「ここをこーすると、こんな結果になりそーだ」と予想したのです。
その手法は子の、ウツキネの時代になっても受け継がれていました。

この発想の連鎖を知るには情報を変形して一般化するという技法に触れないといけないのです。


これはウツロイ
不注意な人は絵を裏返したダケじゃないかぁ!と叫ぶかもしれません。
荷を背負っていないし、微妙に手の表情を変えてあるのです。

ゴロゴロ・ピカッ!っていうあれ、「虚空に居る」、という意味でウツロ・ヰというヤマサ神を想像したのは、多分、縄文人でしょう。
ここを見るのは初めて、という方のために、少し説明しておきます。
ヤマサは「屋・間・小」と書くと、なんとなく理解できるかもしれません、人々の周囲に居て、小間使いのようなことをして、人間をアシストする神です。
それで、ヤマサ神(やまさかみ)。
ナギの時代に、ヤマサ神を祀り、その祭りをする役人を制定しました。
それがヤマサ守(やまさかみ)。
本文中では厳に使い分けてありますので、よく考えて読んでください。
ここではウツロヰという神の祭りをおこなう役人としてウツロイがあるのです。

ああ、それでわかった!「ウツヲ」というのはウツロイをやっている人の名前だ!

んー、まあ、そうとも言えるんですが・・・
ウツヲというのも官職名の通称かもしれいのです。
「虚翁」とか。
本文中に出てくる「ヲ」はほとんど「翁(おきな)」なんじゃないかしら。

現代でも、ありますよね。
例えば、「福翁自伝」、あ、もう現代の人じゃなかった。
日本語って、ほんとに多彩☆
さて、話を進めましょう。


ここで、ニハリノタミと言っていますが、これらは特命を受けた開発要員なのです。

さて、ウツロイというのははじめはイカツチ衆だと言いました。
ニニキネは、クマノ系の眷属(けんぞく)で人々から畏れら、恐れられていたクマノのイカツチ衆を、その性格が変わるほどデフォルメしたのです。
そして、その集団に新しい名前、守名(かみな)を与えることにより、人々の恐れ(おそれ)を取り除き、畏れ(おそれ)だけを与える「ヤマサ守」としたのです。


これはヤマサ守、ニニキネはこの功績により「ワケイカツチ」の讃え名を受けました。

また出た、単に着物の色変えただけじゃね。
ハイ、ソーデス

ちなみに、闇龗(くらおかみ)、高龗(たかおかみ)という言葉は、ホツマツタエには出てきません。
後世の、古墳時代の分類ではないでしょうか。
古墳時代は弥生時代とは異なる文明に支配されていると考えられます。
もっとも、クシミカタマが問題として名前を伏せている可能性はあります。

私は、「学習してくれ」と、リンクだけで済ましているのに、ヱは「説明が足りないからわからん」と言うのです。
このダイダラボッチの話から、石段を作る鬼の民話を想像しろ、といっても、「それは鬼の話だろ、ダイダラボッチとは違う」という批判になってしまうので困りますす。

さて、ここまで、「ワケイカツチ」の話はご理解いただけたと思います。
次に控えているのがヤマサとダイダラボッチの関係になります。

これまでに解説してきた「ヤマノミチノク」の原理で、池底の泥にヒスギ(檜と杉)の種子を混ぜてハゲ山に撒けば、やがて草が生え、木が育ってきます。
杉の成長は早く、5年もすると、そろそろ下枝を払わなくてはならず、いわゆる柴刈りが必要になり、おじいさんは山に入り、おばあさんは川に行くことになるのです。
里山が出来上がる頃、長男が嫁を取るというのが後世の理屈です。
弥生時代にはその辺の作業はみなヤマサがやっていたのかもしれません。
大勢のヤマサは植林と水源涵養につとめ、都市の形成を図ったのです。

そんなステロタイプが塩尻、平出博物館の前にあったのです。

引用 ここから
大男「でいらぼっちゃ」が、背負ってきた大きな山をこの地に落としてしまい、比叡ノ山になったという伝承が残っています。
引用 ここまで
https://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/hakubutukan/hiraidehakubutukan/shuhen.html

つまり、こういうことです。

大勢で人知れず作業を完了し、そのヤマサ守が噂を流すのです。
「オラ、見ただよ、やっぱ、神様はスゲーや」
「ンだ、オラ達なんにもしねーウチにみんな出来ちまうダ」
「まー、しっかし、神様もそそっかしーよナ、あっというまに穴っこさ掘って、その土をかついで山登っていっただ、したら、テッペンでズッコケて土ぶり撒いていっちまいやがった」
「ああ、それで山、高くなっただ」。

これだけ分解すれば大分理解が容易になったと思われますが、ニニキネの時代を研究する上での難しさとして、表の社会の様子とは裏腹に、次にくる古墳時代の影にアタマを柔らかくしておかねば、これまでの考古学者の轍を踏むことになります。
私は大胆に仮説を立ててきましたので、その分、時代がクロスオーバーすることは大きな障害になるのです。

これまでも毎回出てきたことですが、「古墳」という事象が意味するものです。
わたしは、単純に古墳というのは、早くとも、一世紀の終わりからでないと分界(ぶんかい)できない、と考え、それを基準に捉えていました。
オオタタネコを切り離したのも、この文化のギャップがあったからです。

しかし、古墳が墓であったなら、「こうあるべき」という固定観念を持っていたのも事実です。
ニニキネの周囲には「浅間」ということばが付いてくるのです。
皇子達が成人するはるか前に世を去ったアシツヒメ(コノハナサクヤ)への思慕を断ち切れなかったと思われ、幾つものミヤに「アサマ(浅間)」の名を冠しているのです。

弥生時代のルートを探索していた時、地図上で16号をトレースしていました。
日進の付近で、ふと、ああ、15年前に、ステージ4のガンを診断された妻を連れて行田に行ったことを思い出して、ルートを17号に変更しました。
末期とはいえ、まだ元気だった妻は子供達と楽しく過ごしていました。
行田名物フライとゼリーフライで楽しい時間を過ごしたのです。
でも、埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は私に何の感銘も与えませんでした。

そもそも、巨大古墳はジッグラトに匹敵するような「文明」なのですが、文字が無かったといわれて文明扱いされていないのです。
まあ、それはそうなのですが、ホツマ文字にしたところで、外来なのですから当然でしょう。
でも、歴史学者の態度は欺瞞的です。
神代文字はすべて捏造だ、と言い切って、そこにホツマ文字も含めていたのですから「有罪」に違いないのです。
現在、私のところを見に来ていて、いまだにホツマ文字が江戸時代の捏造だと言い切る人は、よほどのバカでしょう。


これは浅間塚古墳(せんげんづかこふん)
古墳の上に浅間神社。

その埼玉古墳群のすぐ横に富士山という地名があります。
???
あれ、これ、アメ族と関係あんの?

富士山という地名は富士塚を築いたところに残る名前です。


これは埋葬形態による文化の考察を示しています。

私は、少し前まで、こんな状態を考えていました。
タケヒトの最期を、トミを連れてホラに入りと書いたり、33人も殉死したりと、タタネコは恥知らずにも書いているのですから、信じる方がおかしいのです。
私も、変だなと思いつつも古墳時代だぁぁ!と思ったものです。
つまり、まだ、オオタタネコを信じる部分があったのです。

富士塚について書いた時、wikipediaの富士講に関する記述を引用したことがあります。
ちょっと再掲します。

転載ここから

富士八海と総称された巡礼地があり、富士山周辺の霊場を中心に構成される内八海と、関東~近畿地方に広がる外八海に 分けることができる。内八海は富士五湖の各五湖と明見湖(あすみのうみ、富士吉田市)、四尾連湖(志比礼湖、しびれのうみ、市川三郷町)、泉端(泉水湖、 せんづのうみ、富士吉田市)が近世富士講の巡礼地であった[9]。しかしそれより以前は、泉端ではなく須戸湖(沼津市・富士市)を含めて「富士八海」とさ れていた[10]。

外八海は二見海(二見浦、三重県)、竹生島(琵琶湖、滋賀県)、諏訪湖(長野県)、榛名湖(群馬県)、日光湖(中禅寺湖、栃木県)、佐倉湖(桜ヶ池、静岡県)、鹿島湖(霞ヶ浦・茨城県)、箱根湖(芦ノ湖、神奈川県)である。

転載ここまで

はじめて見る方は、「こ、これは、ニニキネの事跡の、水源巡礼じゃないかぁぁ!」と思われるかもしれません。
そのとおりですが、これには歴史的順序があります。
最初に出来たきっかけは、ニニキネによるヤマサ守の設置、そしてヤマサを活用したミヤコ作り、そして三皇子を残した皇后アシツヒメの崩御です。
その後、ニニキネは姫を偲んで「アサマミヤ(つかのまの日々のミヤ)」を沢山作るのです。
そして、ずっと後になっても、ヤマノミチノクの実践者であるヤマクイ(沼津日枝神社の伝承ではソサノヲの孫だそうです)を東国の水源開発にあたらせたようです。
ヤマクイは東国にタマツミヤとしての浅間神社を多数作ったと考えられます。
そして、自分の家に対しては山王神社を作りました。
これはヤマノミチノクの技法から、日枝神社(ひえじんじゃ)と呼ばれていいます。
「ヒヱ」に「日枝」の字があてられていることに注目してください。
これは、年ではなく、日の干支(かんし)を表しているので、ヒトエダは、60年でも倍年法の30年でもなく、わずか60日にすぎないのです。
穴を掘った土を盛り上げて、土台を固めて上に殿を建てるのです。
屋根を葺き終えるまでを60日で仕上げるので日枝神社、というわけです。

さて、上に貼った浅間塚古墳ですが上から見ると、こんなふうになっているとか。


これは浅間塚古墳の平面図です。
周囲を囲んでいるのは「古墳」の特徴の一つである周溝(しゅうこう)だそうです。
上に載っているのは前玉神社(さきたまじんじゃ)横に載っているのが浅間神社。
古墳の上に載せちゃうのが特徴でしょうか。

浅間塚古墳の入り口の向きはすぐそばの将軍塚を向いていると思われていますが、もっとずっと先、渋川の大宮姫神社を向いているように見えます。
早い話が、将軍塚ができるよりはるか前に浅間塚があったのでしょう。


浅間塚古墳の向いていると思われる先がこの大宮姫神社なのでしょう。

大宮姫神社(おおみやひめじんじゃ)
群馬県渋川市白井390
36.508653,139.018362

祭神
天宇受売命

ここもやはり古墳の上に神社が建てられているそうです。

私は、愚かにも、ガッコで習った通りの、古墳は3世紀以降のもので弥生時代には無い、と思い込んでいたのです。
ホツマツタヱにも、「カラスツカ」と書いてあるのに、塚って、穴掘るのかなー、とか。
あー、愚かだったわー、カニだわー、猫ダワー・・・


ふ、所詮ワシはニワカにぃ。


まあ、捨てて立つ猫もいるってことで。

ヱ またドサクサまぎれにカニ猫貼ってからにぃ

ト まあ、ニニキネに免じて許してやれよ。

それゆえ、弥生時代と古墳時代の間には越えられない文化のギャップがあると思っていました。
でも、今ではこう考えるようになりました。


結局、29アヤ以降はオオタタネコの捏造&改竄ってことで。

今回、大きな収穫は、アシツヒメの墓を特定したことです。


弥生時代の「古墳」です
最近見つけた画像もあります。
富士市の発表した資料で、樹木の影響を除くレーザー測定で外形を捉えています。


これはアシツヒメの墓と考えられる浅間古墳(せんげんこふん)

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)ですが、前方部の入り口の向いている方向にあるのは、ニニキネのハラアサマミヤ、姫がそこで崩御された、と考えられます。

同時に、ハラアサマミヤの位置も特定しました。



原浅間神社
〒410-0312 静岡県沼津市原560
35.126692,138.789098


貞秀「箱根山富士見平御遊覧諸所遠景之図」
安政4年 神戸市立博物館蔵

この絵のまんなかの部分でわかるように、沼津というのは沼で津なのですね。
船津という地名があることからも船も使えたこともわかります。
もっとも、現在ではほとんど水は無くなっているようです。

東海道も認識していたし、沼で津なのも承知しながらハラアサマミヤを思いつかなかったのは、愚かでした。
あー、愚かだったわー、タコだわー、イカだわー!

ト もう貼らんよ。

オヤジ つまらんのう・・・

この話、まだ富士講まで行かないと理解が半端になります。
そんなわけで、箱根ヶ崎までは、あと少し。

さて、ホツマツタヱに関するご意見ご要望、いちゃもん、文句、NGのあるかたは掲示板のほうに書いていただければ、うちのヱが対応します。
http://hot-uma.bbs.fc2.com/