シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて〜その187〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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日本の中部から塩尻を経て、甲州街道を通り相模原で南下して相模の国(さがみのくに)に至るルートについてお話してきましたが、その相模から武蔵の国を抜けて毛(け)の国に行くルートです。
普通なら、東山道(とうさんどう)を先に解説するのが筋だぜ、とかおもわれたかもしれませんが、ホツマツタヱには和田峠を通って小諸に至る記述が見つけられなかったので、こうなったのです。

とりあえず、可能性だけ述べてみましょう。
ルートは3つ考えられます。
北から、
現国道18号ルート
現国道254号ルート
現国道299号ルート
ですが、小諸側から見て、このうち、299は、接続する先が神流川(かんながわ)に至るあたりで462に分かれ、462を行けば恐竜の足跡(見た)があったり、オバケの出る(見てない)下久保ダムとか、グンマー(私の昔の相棒)がでたりするという噂が有るとか無いとか、確実にあるのは譲原石器時代住居跡(ちゃんと見た)なので、怖いからシロートは遠慮したほうがいいとか、そうでないとか。


これは恐竜の足跡の化石だそうです


下久保ダムは怖いところ、覗き込んだりしないほうが良いとかそうでないとか


ネットの闇に潜む野生のグンマー、これは特定の個人(特に名を秘す)を揶揄するためのものであり、広く譲原の現住民を誹謗するものではありません。


これは譲原石器時代住居跡、国の史跡に指定されています。
昔の人は、ずいぶんとモダンな家に住んでいたのですね。
看板もあるし、間違いの無いところですね。

さて、299を進めば秩小鹿野を経て和同開珎(わどうかいちん)の故郷(どこがだ?単に原材料じゃね?)である秩父(ちちぶ)になります。
というわけで、現国道299は文化圏違いかもしれないので除外しましょう。
中山道は、坂が急といっても、18号は横河から碓氷峠に向かって行くにしたがってヤバくなりますが、現碓氷バイパスのほうは、入山峠(いりやまとうげ)の部分が半端でないので、山岳系アメ族としても、避けたかったのではないでしょうか。

峠のちかくまでは畑をつくっているようには見えますが、街道としては、どうも、ね。
結局、縄文時代から連結する弥生時代に使われるのは、連絡用の道路ではなく、生活拠点の連鎖だったわけです。
それが朝廷の肥大化によって、接続時間を短縮する必要にせまられ、馬が普及してくるのです。
律令時代まで、幅の広い道路が無かったと思うのは思慮が足らなすぎます。

そうなると、最後の、現国道254号、通称ニコヨン街道は結構楽で便利な路ではないでしょうか。
結果的に、現在でも中山道といえば、これを使っているのです。

ニコヨン街道で特筆すべきは国営製糸工場で有名な富岡です。


これは浅い日に養蚕と絹織物を広めたとされるアサヒメとフツヌシに関するミヤと考えられています。

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)
群馬県富岡市一ノ宮1535
36.255153,138.857653
祭神
経津主神 (ふつぬしのかみ)
姫大神 (ひめおおかみ)

昔からのホツマツタヱ知ったかの人からすると、フツヌシのどこが浅い日なんじゃ!と怒りの声が聞こえてきそうですが、生半可な知ったか君は、ホツマツタヱに出てくる名前に鈍感になっているようです。
ほとんどの名前は通称だったり官職名だったりするのを無視しているのです。
フツヌシは「文つ主」で、文書統括官(ぶんしょとうかつかん)の意味ですね。
アサヒメはアサカヒメだったりもしますが、まだ特定はできていません。
ココリヒメのことなのかもしれないのです。
当時の碩学(せきがく)だったフツヌシがココリヒメにタチヌイ(つまり裁縫)を教えた、と考えるのはむずかしいのかもしれません。
24アヤを解説する頃には確定していると思います。

さて、浅い日をすぎた頃、弥生時代中期にさしかかります。
そうなると、これは、あってしかるべきルートになってしまうのです。
なぜならば、船から陸路にシフトするにしたがい、小諸から、山住としても(もはや生活の場ではなく)好きそうな、妙義山、荒船山などがゴロゴロしている地域をスルーして、毛の国(前橋とか足利とか)まっすぐ抜けて行けば、我らが日高見の国(現常陸大宮の甲神社)に行き当たるではないですか。
(峠が嫌なら巻けば良いんです)
少し下ってオシホミミの時代になっても、伊勢に、オシホミミの即位を報告する使者は南のホツマクニを抜けていった、ということになっています。
やはり、毛の国はまだ開かれていなかったのでしょうか。
アマテルの時代に、ハタレ守のハルナとか、方言丸出しで登場してきますが、クシミカタマは、「どうだ、言葉が分かるか?」と設問しているようです。
ハルナは浅い日に山奥に入り込んだハハミチ(母路)なのです。

もしかして、考古学者が想うような蝦夷(えみし)の勢力下にあった、とか。
書かれていない、読めないでは現状、無理にそんなルートを考えるのは許されないことなので、今はあきらめることにしましょう。
なにしろ、弥生時代の後には野蛮極まる古墳時代が控えているのですから。

そんなわけで、律令時代の東山道などというものは、一旦忘れてしまうのが良いかもしれません。
東山道でなければ、どうなるの?

山でなければ海、東海道です。

ニニキネの時代には、楽ではなかったかもしれませんが、サガミからイセまで東海道が使えるようになったようです。
アスカはヤマトに行くには船を使いましたが、ニニキネはイセに行くのに陸路を選びました。
これはミカリ(見狩り)のためで、国内を全て近代化してやろうという野望が芽生えたのでしょう。


これは相模川の河口に位置する寒川神社。

寒川神社(さむかわじんじゃ)
神奈川県高座郡寒川町宮山3916
35.379639,139.383333

祭神
寒川比古命
寒川比女命

なんとも、歯切れのわるいことに、出自不明のカップル、どうやら、オオヤマスミの一族が関東地方から消えてしまっている、という感覚とピッタリなのです。
これについては、やはり24アヤの解説をするときまで待ってもらわねばなりません。

浅い日の後、山住の一族は相模川に沿って増殖しながら足跡(あしあと)を残しています。
律令時代の武蔵路(むさしみち)の駅に、夷参駅(いさまえき)というのが出てきます。

これは東山道武蔵路、テキトーに書いたのでアイソメがデタラメ。

「夷参」弥生文法で読めばイ・サマ、つまり「ずっと(主の)いらっしゃる所」でしょうか、ね。
座間神社では養蚕の守護としてウケモチを祀っていると思われていますが、ウケモチは「保食神」と書いて漢字語にしてあります。
また宇迦御魂(うかみたま)と万葉仮名で書くこともあり、記紀の時代にはすでに混同されています。
これはそれぞれ、
ウ・ケ・モチ【多・食・保】;稲作を管理する
ウ・ケ・ミタマ【多・毛・御霊】;畜産、主に養蚕を管理する
で、まったく異なるものです。

ウケモチは食料増産を管理し、ウケミタマは蚕等、経済動物の守護を業とする官職名なのです。
この混同があるため、ホツマツタヱの読者でも正確に理解が出来ていません。
蚕(かいこ)の初令(しょれい)の幼虫を「けご」と呼びますが、全身が黒い毛におおわれていることから毛子なのでしょう。
それゆえ、養蚕の基本はこの毛子、品種改良され、飛翔力も失った、その一生は「人間のために命を捧げて飼われている家畜、すなわち経済動物」であるため、その守護神(ヤマサ神)として、また管理官(ヤマサ守)としてウケミタマが任命されているのです。
座間にはウケミタマが住んでいたと考えて間違いありません。

さて、相模川を北上すると、川筋は西にそれて行きますので、山住の一族は相模原(さがみはら)の入り口で止まってしまいます。
これより北に行くには多摩川を遡行した雨亜族との合流を待つことになるのです。

その時期になると、オオヤマスミの一族は勢力を増し、国道16号に沿って北上していることがわかります。
今日は、もう目がダメですので、明日はいよいよ、狭山丘陵とダイダラボッチの話をできると思います。


さて、ホツマツタヱに関するご意見ご要望、いちゃもん、文句、NGのあるかたは掲示板のほうに書いていただければ、うちのヱが対応します。
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