本ブログで石原裕次郎映画を取り上げるとは思っていなかったのだけれど、ここで紹介する『金門島にかける橋』は、1962年に日本の日活と、台湾の中央電影公司(中影)との合作映画。



2009年に裕次郎の23回忌を記念して、日活からゴールデントレジャーDVD-BOXが発売された。本作はレアもの作品を含む全90作品が収録されたDVD--BOXに含まれていた作品。

そして、2013年には『金門島にかける橋』として単独のDVDとしてソフト化されたもの。


なぜこの作品に行き着いたかと言うと、映画史の勉強のために買った岩本憲児[編]『日本映画の海外進出──文化戦略の歴史』という本のなかの一遍にあった「台湾における日本映画の断絶と交流─1950-1972」(蔡宜静[著])という論考を読んだことが発端。


この論考は、1950年代から1960年代の台湾映画市場について説明しているのですが、日本映画が大挙して輸入されていた事実について触れています。

この時期の台湾では、1955年あたりから、温泉地である北投において、台湾語映画がたくさん生産されていたことは、

台湾語とびかう『おばあちゃんの夢中恋人』

の記事の中で私も書いています。


その台湾語映画華やかな時代(1955年あたり)は、同時に日本映画やハリウッド映画も台湾映画館にくい込んでいたらしく、とくに日本映画は、文化的親近感もあって、台湾人にかなりの人気で受け容れられていたと、上書の蔡論文では説明しています。


さらに蔡論文では、あまりに日本映画が台湾の映画マーケットを席巻するので、本数制限をかけたり配給会社を絞ったりするのだけれど、日本の映画会社の側でも台湾マーケットが有望だと言うので、その網をかいくぐる方法を模索するなか、合作という手段が試みに行われたというのです。


その合作の試みは何本かあったらしいのだけれど、蔡論文が注目したのは、以下の三本。


・「金門島にかける橋」(1962、日活=中影)、松尾昭典監督、主演:石原裕次郎、芦川いづみ、華欣、二谷英明、唐宝雲


・「秦・始皇帝」(1962、大映=中影)、田中重雄監督、主演:勝新太郎、川口浩、宇津井健、若尾文子、中村玉緒


・「カミカゼ野郎 真昼の決斗」(1966、にんじんプロダクション=國光影業)、深作欣二監督、主演:千葉真一、高倉健、白蘭







これらの作品は、いずれも中華民国の軍隊の協力を得て、大規模な爆破シーンやマスゲームが展開されていることに特徴があります。

(秦・始皇帝では「協力」のクレジットとして中影のほかに、中華民国陸軍の名が!)


なかでも、本作「金門島にかける橋」は、実際に金門島で撮影され、まだまだ大陸側と両岸がにらみ合うなか、現実的に中台の砲撃が頻繁にあった時代に撮られている点で資料的価値も高いです。


最近、金門島を扱った台湾映画としては、2015年の大阪アジアン映画祭にも出品された『軍中楽園』(2014年台湾、ニウ・チェンザー監督)がありましたが、この映画の時代背景は1966年から3年間という設定。





しかし、実際には2010年代に撮影がされているわけで、金門島の風景・建築の実際の様子は、1960年代初頭に撮影されている「金門島にかける橋」のほうがリアル、というわけです。


というわけで、この映画でリアルな1960年代初頭の金門島の様子が観たい、というだけでDVDを買っちゃいました。


結果は満足。

映画の内容的にもまぁ良かったし、金門島だけでなく、台北の1960年代の様子もたっぷり観られたし。

そして、この時代の裕次郎のフレッシュな魅力もまた再認識しました。


裕次郎は好きだけれども、そんなに真面目に日活映画の裕次郎映画を観たことがなかった私。

たまたま比較的廉価なDVDだったから良かった。


しかし、アジア映画を趣味にしていると、どうしてもレンタルでは解決できず、海外DVDを取り寄せたりするから、出費がかさみます。


これは余談ですが、本作に出ていた芦川いづみの可憐さに、いまさら感動。

30代に入ると藤竜也と結婚してあっさり引退してその姿を見せない芦川さんですが、いまだファンが多いのも納得。

アジア映画に偏った私の女優データベースで、この可憐さに近い女優を挙げるとすると、「ドラゴン危機一発」のマリア・イーかな。


話が横道にそれましたが、本題に戻すと、1960年前後、多くの日本映画が流入した台湾では、その頃にブームだった台湾語映画でも、その多くが日本映画のパクリだったという指摘が前述の蔡論文でなされています。


「おばあちゃんの夢中恋人」でも多くの台湾語映画撮影シーンが出てきたし、エンドロールでは実際の台湾語映画の映像も流れてきますが、そういえばどことなく日本映画のにおいがしました。


そして、上記で書いた日本と台湾の合作映画の波なのですが、そのまま主流になることはありませんでした。


理由は、国民党の検閲。


この時代の日本・台湾の合作は蔡論文によると、多くの場合で台湾側が資金をかなり拠出しているんだそうです。確かに中華民国陸軍なんかを動員するという大がかりな映画で、それを日活や大映などの一介の映画会社が負担できるとは考えにくい。


そこまでして、大きな予算をかけて映画を作っても、国民党が検閲し、内容に調整が入ることも多かったようで、現実に「金門島にかける橋」の場合、日本公開が1962年末なのに対し、台湾での上映が1966年。


これでは資金を回収するのにタイムラグが生じて、あまり良い商売とは言えません。


中影は国民党系の映画会社ですが、検閲はやはり受けてしまうわけですね。


上記三本のなかで、「カミカゼ野郎 真昼の決斗」だけは、中影ではなく、國光影業という小さなプロダクションが製作に関わっていたのですが、実際にこの検閲のせいで公開できなかった間に、資金回収が遅くなったためなのか、倒産してしまったそうです。


こりゃ、すぐに日本・台湾合作が下火になるはずですね。


そして台湾映画市場は1960年代の後半にかけて、香港映画との蜜月関係に入っていきます。


その代表的な出来事のひとつが、香港のショウ・ブラザーズが台湾にリー・ハンシャン監督を分家させて1963年に設立した国聯公司。


リー・ハンシャンは、このちょっと前に香港で撮った「梁山泊與祝英台」を台湾でも大ヒットさせています。




そしてもうひとつ。私も好きなキン・フー監督がリー・ハンシャンを追うように台湾にやってきて、やはり自分の映画製作会社を設立。

1967年には「龍門客棧」を全アジア級に大ヒットさせます。




これら二つのトピックを観ても、香港映画が台湾を配給市場として考えていただけでなく、直接現地生産方式で台湾に入り込んでくる様子がわかります。


そして、1972年には日中国交正常化が行われ、台湾と日本の国交は断絶。合作映画を作る時代ではなくなってしまっただけでなく、日本映画の配給先としての台湾マーケットも消滅したわけですね。

(蔡論文の副題が、1950-1972となっているのはその意味です)


こうした背景を知って、裕次郎映画を観ると、なんとも感慨深いモノがあります。


さて、1962年当時の日本人のどれだけの人が、そうした中台の両岸関係や、台湾の映画マーケットと日本の映画会社との関係まで理解して、この映画を観たんでしょうねぇ。


裕次郎世代に聞いてみたいところです。