『私の男』記事、連投です。
はじめに以下のチラシ(ポスター)。
映画や小説の面白みを左右するのはプロットの着眼点ですよね。とくにサスペンスやミステリーではプロットが全てで、いくら心理描写が上手くても、話の運びがヘタだったり、先がよめていたら駄作と言って良いと思う。
とはいえ、この映画&小説「私の男」のように、完全なミステリーではなく、最初から犯人がわかってしまっている作品では何が重要か?
それは物語の舞台だと思うのです。
で、あらためて上記の画像の流氷に着目。
「流氷での殺人事件が、すべてのはじまりだった―」
流氷は日本では北海道のオホーツク沿岸にしか来ない自然現象で、世界的にもそうそう見られるものではない。
オホーツクの流氷の場合、サハリンのアムール川から淡水が海水に流れ込み、塩分濃度が低い状態で凍って、そしてはるばる北海道のオホーツク沿岸までやってくる。
ここで殺人事件が起こるという設定だけでもドラマチックなのだが、「私の男」の主人公である少女・花は、北海道南西沖地震(1993年7月12日 夜10時頃発生に発生した現実の災害)によって引き起こされた津波に襲われた被災家族の、たった一人の生き残りであり、まさに北の海の申し子のような存在として描かれている。
だからこそ、流氷での殺人シーンは緊迫感がある。
映画版も小説版も。
映画版予告編を見ると、少女・花が流氷で「何か」を起こすことが示唆されている。
実はこのシーン、小説版とは若干シチュエーションが異なる。映画版が映像の劇的効果を狙って翻案したクライマックスシーンだ。
流氷の中に飛び込む少女・花というシーンは小説版にはないが、海の申し子である花にとって、私の男つまり自分の大切な人との生活を守ることが、生死をかけた闘争に値するくらいのものであることが、映画的効果をともなって観客にずしんと感じられるシーンになっている。
原作の段階で、劇的効果をともなう流氷でのシーンだが、映画にもこういう新しい解釈でより劇的・映画的な表現を加えている点でも、本作はやはり並外れた映画だと思う。
物語のなかで流氷殺人が起こるのは2000年ということになっている。
その頃は実際に紋別の流氷は人が乗れる(歩ける)くらい分厚かった。
しかし、2010年代の今は薄っぺらい薄氷が接岸しているに過ぎない。
その数年前には拓銀の破綻があって、道内経済は信じられないほどに落ち込み、北海道の地方はみるみる廃れていく。
舞台となる紋別市もその例にもれない。
小説版ではさらに、現実には1989年に国鉄民営化二年後に廃駅となった紋別駅について触れ、数年前に廃止されたと語り手に言及させることで、地方経済の衰退ぶりが強調されている。
北海道南西沖地震1993年(花・9歳)→拓銀破綻1997年(花・13歳)→流氷殺人2000年(花・16歳)
時間軸としても、本作は絶妙の舞台設定を選んでいるのだ。
かつて実際の事件に材を得て、かつ北海道という舞台ならではの名作となった小説・映画には、水上勉の『飢餓海峡』(小説1963年、映画1965年)がある。
現実に同日に起こった事故・事件であるが、両者の間には直接の因果関係がない二つの出来事―1954年9月26日の青函連絡船転覆事故(洞爺丸事故)と北海道岩内町の大火事(岩内大火)―を結びつけた巧みなプロットを構成し、戦後間もない時期に時間軸を変更することで、日本人の中にあった飢餓の念を物語の通奏低音とした鬼気迫る作品であった。
本作はそれに次ぐくらいの、北海道という舞台を最大に活かしたロケ作品になった。
もともと流氷は近年、薄氷化が進んでいることで流氷上での撮影が危険極まりないことや、そして物語そのものが近親相姦というタブーに触れていることなどから上映が難しいのではないかとかで、本作の映像化は困難と言われてきた。
真冬の流氷での撮影は俳優の身の安全を守れないこともあって、確かに流氷のシーンでは特撮が使われていて、観ればそれとわかる現実離れした質感と色味をフィルムに及ぼしている。
とはいえ、それゆえにこの流氷シーンが、いっそう現実離れした劇的な事件に見え、さらに主人公の吹雪のように激しい心理をよく表す結果となった。
二階堂ふみに激情的な演技をさせたことで、より一層その効果が増していることも特筆しておきたい。
映画的表現という点では、小説との変更点のなかで、効果があがったと思われるのはいくつかの台詞の言い換えである。
主人公・花と義父・淳吾の関係を示す以下の台詞。
小説版の淳吾:「俺の、娘だ。もう俺のもんだぞ」
映画版の淳吾:「いまから俺は、おまえのもんだ。」
微妙に意志が異なってしまうのだが、これは主人公としての花に、主導権を持たせた物語とするために言い換えたのだろう。
映画版の予告編にも花による独白「ぜんぶ、私のもんだ」という言葉が強調されている。
小説版では、物語の語り手は、章ごとに異なる。
さらに、過去から現在に時間軸が進む映画と違い、小説では現在から過去に遡る構成になっている。
小説では、章ごとに語り手がかわる。そして時間もすこしずつ遡っていく。
花、花の婚約者となる美郎、淳吾、ふたたび花、淳吾の元恋人・小町、みたび花。
これだけの心理描写ができるので、まだ状況がつかめぬ子どものうちに、淳吾の意志で養子にされた受身的状況にありながら、全ての段階において花が主導権を持った物語であることがわかるけれど、映画は最小限の台詞でそれを表現しなければならないので、淳吾の意志のなかにも花を主体としていく意志があるような台詞にしたのだろう。
なぜ、花はこのような状況になることを望んだのか? という読者の疑問に、子ども帰りしながら答える小説に対し、映画は正方向の時間軸のなかで、花の意志と主導権がどんどん大人になるにしたがって強まる方向に進むことで説得力を持たせている。
映画と小説ではこのようにそれぞれの媒体が持つ限界を最大限に活かした台詞一言ひとことまでが緻密に練られた作品になっていると思えるのだ。
それにしても、原作を読んでみると、淳吾役は浅野忠信しかあり得ない、ということに気づく。
熊切監督はあるインタビューで、映画の構想に入る前、原作を読みながら、淳吾を浅野忠信に置き換えて読み進めた、と言っていた。
小説のこんな記述を読みながら、まさに浅野忠信のイメージしか考えられなかった。
<花の独白>
その流れるような動きは、傘盗人なのに落ちぶれ貴族のようにどこか優雅だった。
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私の男は、やっぱり、だらしなくてもうつくしかった。
――こういう雰囲気が出せる男優、ほかにいただろうか?