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「父と子と聖神」…、ですね。

「聖神」…?

少々長いですがお読みください。

以下、ハリストス正教会HP(http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/shinkou04.html)より転載

聖神

一般では「聖霊」と言いますが、正教会では「聖神」と言います。「聖神」の「神(しん)」は、ギリシャ語の「プネウマ」英語の「スピリット」を意味します。日本正教会では、神の「プネウマ」や人間のもっている精神的(スピリチャル)な面を表すものとして「神(しん)」という言葉を選んでいます。「神(かみ)」と同じ漢字なので区別するために右肩に「゜」をつけて「神゜」と表記することもあります。しかし、いわゆる「神父(しんぷ)」という言葉も実は「神様の父」ではなく「神(しん)の(スピリチャルな)父」という意味なのですから、全く特別な言葉というわけではありません。「霊」という言葉は、ギリシャ語の「プシヒー」英語の「ソウル」もしくは「ゴースト」に当たる言葉であり、どうしても「幽霊」や「動物的な霊」をイメージしてしまうので、正教会では「聖霊」ではなく「聖神」という用語を大切にしています。

聖神は、ハリストス(キリスト)と同じように父と一体(同本質)です。すなわち聖神も神そのものであるお方です。聖神は神が造ったものであるとか、神の力を表す名称に過ぎないなどいう考え方は、正教会では受け入れらません。「信経」では「主、生命を施す者」「父及び子と共に拝まれ讃められ」と聖神が神であることを強調しています。しかし、ハリストス(キリスト)と聖神を区別するために、ハリストス(キリスト)は父から「生まれ」、聖神は父から「出る」という聖書に基づいた表現が用いられます。父から「出る」ものは父と同じ本質をもっています。しかし神・子と聖神の神格は別なのです。

ところが、ローマ・カトリックは、聖神は父からだけでなく子からも出ると主張をし、「信経」に「子からも(ラテン語で「フィリオケ」と言う)」という言葉を勝手に付加しました。正教会はこの「フィリオケ」を受け入れることはできません。なぜなら、三位一体の三つの神格を混合してしまうからです。聖神が「父と子」の両方から「出る」としたら、本源が二つになってしまい、それでも本源は一つだとするなら「父と子」の区別がつかなくなってしまいます。こうしてカトリックは神の三つの格を強調するよりも神の一つの本性、同一性の方を強調し、ひいては教会の在り方に対する考え方も相違をなくそうとする傾向になり、ローマ法王の権威による教会統一が主張されることに結びついてしまいます。正教会は、父のみが一つの本源であり、父と子と聖神は区別されながらしかも完全に一致していると主張します。だからこそ、個々の教会、個々の生命は大切であり且つ愛における一致が大切なのです。こうして「フィリオケ」はローマ・カトリックと正教会の大きな違いの一つになりました。

しかし、聖神は、私たちの救いのために私たちのもとへ遣わされることを度外視しては何にもなりません。神・子が永遠のうちに父から生まれるだけでなくマリヤからこの世に人間として生まれたように、聖神は永遠のうちに父から出るだけでなく、私たちのためにこの世へと降臨します。その場合においては、聖神は父より子をとおしてこの世に出る(降臨する)と聖書は教えています。

旧約聖書では、天地創造の時にも「神の神(しん)、水の面に覆育(ふいく)せり(神の霊が水のおもてをおおっていた)」と聖神について言及されています。三位一体である神様のこの世に対するすべての業には、かならず神・子と神・聖神が同時に働いているのです。特に旧約聖書の預言者たちに神の言葉を語らせたこと、言い換えるなら預言者たちをとおして神言葉を語った者は聖神であることを「信経」は「預言者を以てかつて言いし」と強調しています。

イイスス(イエス)・ハリストス(キリスト)のご生涯はすべて聖神に満ちていました。降誕は、「聖神および童貞女マリヤより」行なわれ、洗礼の時には「鳩のような」形で聖神が降りました。ハリストス(キリスト)の教え、奇跡、いやし、そして十字架と復活も聖神の力と共になされたことです。

私たちも聖神によってハリストス(キリスト)の救いに預かることができます。聖神によらなければ誰もハリストス(キリスト)と一つになることはできません。そういう意味で、ある聖人は「クリスチャンの目的は聖神の獲得である」と教えました。ペンテコステ(五旬祭)と呼ばれる日に、弟子たちの上に聖神降臨が起きたのはそのためです。私たちの上にも聖神が降臨する時代がそこから始まりました。教会は、聖神によって生かされています。もし聖神がなければ教会はただの集会に過ぎなくなります。私たちがハリストス(キリスト)の教えを守れるのも、祈るのも、救われるのも、さまざまな能力を発揮できるのも、そして生きているのも、すべて聖神によってです。聖神は、私たちに「生命を施す者」です。この生命とは、この世の生命であると同時に復活の生命をも意味します。

聖神は、ハリストス(キリスト)によってこう説明されています。「父のみもとから来る(出る)真理の御霊(聖神)が下る時、それはわたしについてあかしをする。」「御霊(聖神)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」。つまり、聖神は、あくまでもハリストス(キリスト)という真理を私たちに教え導き証しするものとして働きます。言い換えるなら、聖神はご自身の神格を明確に浮きぼらせないままで、ハリストス(キリスト)と私たちを結びつけておられるのです。だから聖神の神格をしっかりと把握するのは難しいことです。聖書では聖神を表現する時、「風」「息」「火」「油」「水」そして「鳩」などの象徴が好んで用いられ、あまり人格的には表現されていません。しかしこれはあくまでも隠喩的な表現であり、聖神そのものは生きたお方であります。聖神は、「来る」「言う」「愛す」「与える」「憂いる」「教える」と聖書には書いてあります。

正教会では、聖神を「撫恤者(なぐさめるもの)」と呼んでいます。これはギリシャ語の「パラクレートス」の訳で、「助け主」とか「弁護者」と一般では訳されたりしていますが、もともと「そばに呼び寄せられた者」という意味をもっています。正教会は、聖神を私たちのそばに降りてきて私たちを苦難、苦悩、罪、そして死から救い慰めるためにハリストス(キリスト)と私たちを一つにしてくれるお方として、日々その降臨を祈り求めます。

以上、転載終わり