神武天皇 縄文の聖地で即位 | andrewさんのブログ

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奈良新聞(http://www.nara-np.co.jp/)で始まった新春連載「神話から歴史に~考古学からみた皇室の始まり」…

 

第1回目は「橿原遺跡」

 

以下、転載

 

昨年12月、天皇陛下が平成31年4月末で退位され、翌5月1日に皇太子殿下が即位されることが決まった。天皇退位は約200年ぶりで、現憲法下では初めてだ。秋には秋篠宮家の長女、眞子さまのご成婚も控え、今年は皇室に注目が集まる1年となる。本県は「万世一系」とされる皇室のふるさと。古事記や日本書紀に記された神話のゆかりの地が多く残るほか、国の始まりに関わる遺跡も多数存在する。そうした遺跡を連載で紹介し、考古学の観点から皇室や国家の始まりを探る。

橿原遺跡(橿原市畝傍町、御坊町)は畝傍山の東麓、現在の県立橿原公苑に位置する縄文時代晩期の遺跡だ。土製品や石製品など縄文人たちの生活をうかがい知れる遺物が大量に出土。中でも、約200点にも及ぶ土偶は西日本では最多であり、土器は「橿原式」と呼ばれて同時代晩期の基準資料となっている。

発掘調査は昭和13年から2年間、「紀元2600年祭」に伴う橿原神宮の周辺整備で実施された。古事記、日本書紀(以下記紀)によれば、橿原は初代・神武天皇の即位の地。年代も一致することから、発見時は神武に関わる遺跡として大々的に宣伝されたという。

記紀では、神武は日向(宮崎県)を出発して瀬戸内海を東進。紀伊半島を大きく迂(う)回して、熊野(和歌山県)に上陸して八咫烏(やたがらす)の道案内で山中を進み、ヤマトの国を平定したという。

諸説はあるが、現在の歴史学界では神武から14代・仲哀天皇までの実在性が疑問視されている。しかし、岡田登・皇学館大学名誉教授(考古学、日本古代史)は「記紀に書かれていることを素直に受け取って解釈すべき。伝承が残るには何らかの事実があったはずだ」と、神武が実在したと主張する。

岡田名誉教授は稲作や金属器など記紀の神話と弥生文化との共通性から、「神武東征」を弥生時代中期末~後期初め(1世紀前半ごろ)と推定。「神武の集団は弥生文化の先進地だった北九州から日向に南下したが、稲作には不向きな土地だったため、新たなフロンティアを求めて東へ向かった」とする。

同時期に瀬戸内東部や畿内などに外敵を防ぐための高地性集落が増えることを、西から集団の動きの考古学的な根拠に挙げる。

なぜ、神武は橿原を即位の地に選んだのか。岡田名誉教授はその手がかりとして、神武に服したオトウカシらが神へ捧げる皿を作るため、香久山の土を献上した記紀の神話に注目する。

東国の土器が多く出土する同遺跡を「東と西の接点となったヤマトの首都ような場所」と評価。神話は先住の縄文人は日が昇る方向にある香久山を神聖な山と考えていたことを示しているという。

さらに、橿原はその名のとおりに縄文人の主食であるドングリの木(カシ)の森だった。硬いカシ材は水田開発のための農工具に適しているが、弥生時代の遺物は少ない。そのため、「橿原が縄文人の神聖な地だったので、弥生人は軋轢を避けるために開発しなかったのでは」と想像する。

記紀の神話には、弥生時代の祭具と考えられる銅鐸は登場しない。この事実から、岡田名誉教授は記紀で神武に抵抗するナガスネヒコらの集団を、縄文人と融合した銅鐸を崇拝する先住の弥生人と想定。その上で、「神武も先住民と融和のため、縄文時代から聖地だった橿原を即位の地に選んだのだろう」と結論づけた。

岡田名誉教授は記紀の神話について「文字の無いころから祭などで歌って記憶してきたもの」とし、「天皇陛下が代わられるときにこそ、歴史的な資料として記紀を再評価すべき」と訴えている。

 

以上、転載終わり

 

記事にもありましたように14代までは実在が疑問視されている天皇ですが…

 

記事では実在を主張しています。

 

私的には14代ではなく15代応神天皇まで1人であったと考えています。

 

そういう意味では神武天皇は実在したと…、いうことに。

 

歴代天皇で「神」が付くのは神武、崇神、応神…、それに応神の母である神功皇后…

 

この3人プラスワンのみ…

 

神功皇后は三韓征伐…、その中でも新羅での話が有名…

 

と、いうことは…

 

記事にもありましたように「歴史的な資料として記紀を再評価すべき」…

 

大賛成です。