未知の巨大石室古墳 - 物部氏の有力者墓? | andrewさんのブログ

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奈良・天理で未知の巨大石室古墳…


以下、奈良新聞より引用


未知の巨大石室古墳 - 物部氏の有力者墓?/天理の丘陵地(http://www.nara-np.co.jp/20150428092231.html


天理市豊田町の丘陵地で巨大な横穴式石室を持つ7世紀前半の古墳が見つかり、調査した天理市教育委員会が27日、発表した。「豊田トンド山古墳」との命名を検討。周辺を本拠地とした古代豪族・物部氏の有力者の墓と考えられる。

以上、引用終わり


また、そのサイド記事には…


以下、転載(同)


物部氏“本拠地”近く


新たに見つかった豊田トンド山古墳(仮称)との関連性が注目される物部氏は、古事記や日本書紀に登場する神「ニギハヤノミコト」を祖とし、ヤマト王権の軍事や祭祀(し)を担った。


天理市布留町の石上神宮は物部氏の氏神で、ヤマト王権の武器庫の役割があったとされる。近くの布留遺跡では居館跡や工房跡が見つかり、物部氏の本拠地との見方が強い。


豊田トンド山古墳は同遺跡に近い立地のほか、古い時代の古墳に多い赤く彩色された石室や鉄の矢尻などの副葬品も、伝統を重んじる軍事氏族・物部氏の姿と重なる。


泉森皎・県立橿原考古学研究所特別指導研究員(考古学)は「立地や石室の規模から考えると、物部氏の中でもかなりランクが上の人物だろう」と想像する。
物部氏は587年、物部守屋が王位継承や仏教の受け入れを巡って対立した蘇我馬子によって滅亡。豊田トンド山古墳が築造されたのは、その後の7世紀前半と推定される。


泉森さんは「守屋を中心とした河内(大阪府)の勢力が滅んだ後も、在地勢力の物部氏が大きな力を持っていた証しになるでは」としている。


今回見つかった横穴式石室は道路用地の一部。天理市教育委員会は「今後、遺構の保存も含めて検討したい」としている。


以上、転載終わり


物部氏です…


物部氏といえば記事中にもあったように「ニギハヤノミコト」の子孫。


ニギハヤノミコトは神武の東征以前に大和に地に来ていた「神」…


たしかこのときにアマテラスノミコトから十種の神宝を授かり大和の地に来たとか…


と、いうことは同系統の者が2派にわたって大和の地に来たことに…


神武のときには長髄彦と戦っています。


その長髄彦は


「「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」


と問うています…


神武とニギハヤノミコ、別系統といえなくもないですが…


私は同系統とみます。


長くなるので詳しくは次回に…