久々、維摩経です。
普守菩薩曰。我無我為二。我尚不可得非我何可得。見我實性者不復起二。是為入不二法門
電天菩薩曰。明無明為二。無明實性即是明。明亦不可取離一切數。於其中平等無二者。是為入不二法門
喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門
明相菩薩曰。四種異空種異為二。四種性即是空種性。如前際後際空故中際亦空。若能如是知諸種性者。是為入不二法門
妙意菩薩曰。眼色為二。若知眼性於色不貪不恚不癡。是名寂滅。如是耳聲鼻香舌味身觸意法為二。若知意性於法不貪不恚不癡。是名寂滅。安住其中。是為入不二法門
無盡意菩薩曰。布施迴向一切智為二。布施性即是迴向一切智性。如是持戒忍辱精進禪定智慧。迴向一切智為二。智慧性即是迴向一切智性。於其中入一相者。是為入不二法門
深慧菩薩曰。是空是無相是無作為二。空即無相無相即無作。若空無相無作則無心意識。於一解門即是三解門者。是為入不二法門
寂根菩薩曰。佛法眾為二。佛即是法法即是眾。是三寶皆無為相與空等。一切法亦爾。能隨此行者。是為入不二法門
心無礙菩薩曰。身身滅為二。身即是身滅。所以者何。見身實相者不起見身及見滅身。身與滅身無二無分別。於其中不驚不懼者。是為入不二法門
上善菩薩曰。身口意善為二。是三業皆無作相。身無作相即口無作相。口無作相即意無作相。是三業無作相即一切法無作相。能如是隨無作慧者。是為入不二法門
福田菩薩曰。福行罪行不動行為二。三行實性即是空。空則無福行無罪行無不動行。於此三行而不起者。是為入不二法門
華嚴菩薩曰。從我起二為二。見我實相者不起二法。若不住二法則無有識。無所識者。是為入不二法門
德藏菩薩曰。有所得相為二。若無所得則無取捨。無取捨者。是為入不二法門
月上菩薩曰。闇與明為二。無闇無明則無有二。所以者何。如入滅受想定無闇無明一切法相亦復如是。於其中平等入者。是為入不二法門
寶印手菩薩曰。樂涅槃不樂世間為二。若不樂涅槃不厭世間則無有二。所以者何。若有縛則有解。若本無縛其誰求解。無縛無解則無樂厭。是為入不二法門
珠頂王菩薩曰。正道邪道為二。住正道者則不分別是邪是正。離此二者。是為入不二法門
樂實菩薩曰。實不實為二。實見者尚不見實何況非實。所以者何。非肉眼所見慧眼乃能見。而此慧眼無見無不見。是為入不二法門
少々長いですが、奈良の地元紙奈良新聞に連載されてある「釈尊の世界」(興福寺執事長・森谷 英俊師)によれば
「『維摩経』の主題を説くハイライト」
ということで
「「不二」とは聞き慣れない用語ですが、どういう意味があるのでしょう。不二の字義は「二ならざる」というものですが、仏教的には「二つの反するものが対立し ない」と言う意味です。「一つになる」と言い換えられなくもないのですが、相反する概念が本来は一つであるという大乗仏教の究極の理論展開を背景にしています。生と死、苦と楽、好き嫌い、善と悪、美と醜。例を挙げれば切りがありません。この世の中には何と多くの対立するものがあるのでしょう。その最たる理由の一つは人間社会の宿命がそこにあるからということです。
普通、私たちは自分こそが全てで絶対で、そこから出発しますから、出発からもう己と他という対立から逃れることができないのです。」
「「諸行無常(しょぎょうむじょう)」この世の中に変わらぬものなど何も無い―という理(ことわり)が身にしみついていれば、世界の中心として存在し基準となる変わらぬ不変の自分などいかほどもないと実感でき、そうしたことも回避できるのですが、悲しいことに頭で分かっていても心を制御できないのが私たち人間であるのです。仏教はそうした心の自在のコントロールの仕方を追求するのですが、その具体展開が説かれるのが『維摩経』の「入不二の章」です。」
以上、かっこ内「奈良新聞より引用(奈良新聞HP=http://www.nara-np.co.jp/ )
如何でしょうか。
それではもう一度、こんどは訳文で
(訳は国訳解説 維摩経入門より)
そして維摩詰は、その場にいる菩薩たちに言いました、『お前たち、何のようにして、菩薩が不二法門に入るのか、各々思うように説いてみよ。』
集まった中の法自在という名の菩薩が説いて言います、『皆さん、『生滅』が二だと思います。あらゆる物事には、本来『生ずること』がありません。そこで『滅すること』も無いのです。この無生法忍(むしょうほうにん、生滅が無いと認証する)を得ること、
これを不二法門に入るといいます。』
徳守菩薩が言います、『我と我所とが二とします。我が有るので我所も有る、もし我が無ければ我所も無い。これを不二法門に入るといいます。』
不眴菩薩が言います、『受と不受とを二とします。もし物事を感受しなければ、認識せず、したがって取ることも無く、捨てることも無く、生滅の因縁を作ることも無く、心の動きも無い。これを不二法門に入るといいます。』
徳頂菩薩が言います、『垢と浄とを二とします。煩悩の本性とは、煩悩が無くなくならなくても真実に従うことができる。これを不二法門に入るといいます。』
善宿菩薩が言います、『動と念(ねん、心から離れないこと)とを二とします。心が動かなければ、心が離れなくなることも無く、分別することもない。これに通達することを不二法門に入るといいます。』
善眼菩薩が言います、『一相と無相とを二とします。《あらゆる物事はただ一つのものだ》という事は、《あらゆる物事は見聞きし認識することはできない》という事だと知れば、見聞きし認識すらできないことに執著せずに平等(一相)を知ることになる。これを不二法門に入るといいます。』
妙臂菩薩が言います、『菩薩の心と声聞の心とを二とします。心に映る物事は、皆空であって幻化(げんけ、幻の者)のようなものだと観察すれば、菩薩の心も声聞の心も無い。これを不二法門に入るといいます。
弗沙菩薩が言います、『善と不善とを二とします。もし善心も不善心も起こさず、あらゆる物事は見聞きすることも認識することもできないと知り、これに通達することを不二法門に入るといいます。』
師子菩薩が言います、『罪業と福業とを二とします。もし罪業の本性は福業と異ならないと知り、金剛のように堅固なる智慧で確信して、悩み悔いることなく、解脱を求めようともしないものを、不二法門に入るといいます。』
師子意菩薩が言います、『有漏と無漏とを二とします。もしあらゆる物事は平等であると確信すれば、煩悩と涅槃とについて妄想を起こさず、あらゆる物事の見かけに執著せず、無相の中で行動することができる。これを不二法門に入るといいます。』
浄解菩薩が言います、『有為と無為とを二とします。もし一切の分別を離れれば、心は虚空の如く、清浄なる平等の大智によって自由となる。これを不二法門に入るといいます。』
那羅延菩薩が言います、『世間(生死世間)と出世間とを二とします。世間の本性は空であり出世間である。その世間にあって生死なく、行業も他に因縁せず自らも因縁されず。これを不二法門に入るといいます。』
善意菩薩が言います、『生死と涅槃とを二とします。もし生死の本性に気が付けば、生死は無く、生死に縛りつける煩悩も、それを解く覚りも無く、不生不滅であると知る。これを不二法門に入るといいます。』
現見菩薩が言います、『尽くすと尽くさないとを二とします。あらゆる物事を尽くしきってしまうという事と、尽くさないという事とは、皆本来尽きるものが無い。
尽きるものが無ければ空である。空には尽きるという事も尽きないという事も無い。このように理解することを不二法門に入るといいます。』
普守菩薩が言います、『我と無我とを二とします。我ですら知ることができないのに、無我を何うして知ることができよう。我の本性を知れば、再び我と無我との二を起こすことはない。これを不二法門に入るといいます。』
電天菩薩が言います、『明と無明とを二とします。無明の本性は明である。明もまた知ることはできなくて一切の考慮を超えている。そのことを平等であり無二であると知れば、不二法門に入るといいます。』
喜見菩薩が言います、『色と色空とを二とします。色は空である。色が滅して空となるのではない。色の本性は空なのである。同様に受想行識と受想行識空とを二とします。識は空である。識が滅して空となるのではない。識の本性は空でなのである。これを通達すれば不二法門に入るといいます。』
明相菩薩)が言います、『地水火風の四大と空大とを二とします。四大の本性は、空の本性と同じである。(衆生は)過去世と未来世が空であるから現在世も空である。このように物事の本生を知る者を、不二法門に入るといいます。』
妙意菩薩が言います、『眼(眼等の六根)と色とを二とします。もし眼の本性は色に於いて貪らず、怒らず、愚かならずと知れば、これは涅槃である。同じく耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法とを二とします。もし意の本性は、法に於いて貪らず、怒らず、愚かならずと知れば、これが涅槃である。そのように知って驚かないものを不二法門に入るといいます。』
無尽意菩薩が言います、『布施と一切智に廻向することを二とします。布施の本性は、一切智に廻向することである。同じく持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と一切智に廻向することを二とします。智慧の本性は、一切智に廻向することである。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と、仏になることとは一つのことであると知る。これを不二法門に入るといいます。』
深慧菩薩が言います、『空と無相と無作とを二とします。空は無相であり、無相は無作である。空、無相、無作であれば心に意識が無い。一つの解脱の門は三つの解脱の門である。これを不二法門に入るといいます。』
寂根菩薩が言います、『仏と法と衆僧とを二とします。この三宝は皆涅槃の現れであり、虚空と等しい。一切の物事も同じように虚空と等しい。このように修行できる者を不二法門に入るという。』
心無礙菩薩が言います、『身と身が滅することとを二とします。身とは身が滅することである。なぜならば身の本性を知る者は身を見ることも身の滅することを、見ることもない。身と、身の滅することとは別の事ではなく、区別できない。そのように聞いて驚かず畏れることの無い者を不二法門に入るといいます。』
上善菩薩が言います、『身と口と意の業を二とします。本来身口意の三業は皆、働いて他に因縁することは無い。身が他に因縁しなければ口も他に因縁しない。口が他に因縁しなければ意も他に因縁しない。このように三業は他に働いて因縁しないのである。このような他に働いて因縁しないと知る者を不二法門に入るといいます。』
福田菩薩が言います『福を招く行いと、罪を招く行いと、どちらでもない行いとを二とします。三つの行いの本性は空である。空には福を招く行いも、罪を招く行いも、どちらでもない行いも無い。この三つの行いをしない者を不二法門に入るといいます。』
華厳菩薩が言います、『我の妄念があるために、我と彼との二がある。我の本性を知る者は我も彼も無い。我も彼も無ければ物事を識別することも無い。識別しない者を不二法門に入るといいます。』
徳蔵菩薩が言います、『心に得る所の我相と彼相を二とします。得る所が無ければ取る(執著)も捨てることも無い。取ることも捨てることも無い者を不二法門に入るといいます。』
月上菩薩が言います、『闇と明とを二とします。闇が無く明も無ければ、二つではない。なぜならば感受し想像することを滅する禅定に入れば、闇も無く明も無い。あらゆる物事の相も同じである。そう知って平等を理解する者を不二法門に入るといいます。』
宝印手菩薩が言います、『涅槃を楽(ねが)うことと世間を楽しまないこととを二とします。もし涅槃を楽わず、世間を厭わなければ、二つは別ではない。なぜならば、もし世間に縛り付ける煩悩があれば、それを解脱する覚りもある。もし本から煩悩が無ければ誰が覚りを求めよう。煩悩も解脱も無ければ、楽うことも厭うことも無い。これを不二法門に入るといいます。』
珠頂王菩薩が言います、『正道と邪道とを二とします。正道を往く人は邪と正とを分別しない。邪と正とを超えた者を不二法門に入るといいます。』
楽実菩薩が言います、『真実と不実とを二とします。真実を見る者は真実を見ない。不実の者に何うして真実が見れようか。なぜならば、肉眼で見るのではない。慧眼ならば見ることができる。しかし慧眼は見ることも無く見ないことも無い。これを不二法門に入るといいます。』と。
このように諸の菩薩が各々自説を述べ終って、文殊師利に問います、
『菩薩が不二法門に入るとは何をいうのでしょうか?』と。