如何でしたでしょうか。
漢字ばかりでは…、ですか。
では訳です。
国訳解説維摩経入門より
『何を言おうとしておる?』
答えます、
『世間は無為(むい、何も無い)であると見て涅槃に入る
声聞、辟支佛たちは、
阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、
この世を浄め理想の仏国土を建設したいとの思い)を発(おこ)すことができません。
譬えば、清清しき高原の陸地には蓮華は生じませんが、じめついた泥沼にならば生ずることができます。
このように、この世は無為であって何も無いと知って涅槃に入る者は、ついに仏と同じような仏法を生み出すことができません。
煩悩の泥沼の中にあって初めて衆生は仏法を起こすことができるのです。
また
虚空に種を植えても生ずることはありません。
よくこやしを施して耕した地であれば、よく繁らせることができます。
このように無為の涅槃に入った者は仏法を生ずることがなく、我見(がけん、我ありとの思い)を起こして、須弥山のように尊大に構えている者の方が、まだ阿耨多羅三藐三菩提心を発して仏法を生ずることができましょう。
この故に、知らなくてはならないことは、一切の煩悩は、これは如来の種なのです。
譬えば、大海の中に沈まなくては、高貴な宝珠を得ることはできません。同じように、煩悩の大海の中に入らなければ、一切智(いっさいち、仏の智慧)の宝を得ることはできないのです。』と。
ここまで、如来の心は衆生心の中に生ずることをいう。
その時、大迦葉(だいかしょう、最高位の仏弟子)が歎いて言いました、
『素晴らしい素晴らしい、文殊師利、この説をよく説いてくだされた。誠にその通りです。
煩悩の類が如来の種であったとは。
私どもには、今はもう阿耨多羅三藐三菩提心を発すだけの力が残っていません。
五無間罪を犯した者ですら、阿耨多羅三藐三菩提心を発して仏法を生ずることができるというのに、今の私どもにはもうそれができないのです。
譬えば、眼耳鼻舌身意の根が腐ってしまっている者には、色声香味触法で衆生を利益することはできません。
同じように、声聞の諸の煩悩を断った者たちは、仏法の中で衆生を利益するものが何も残っていない為に、菩薩となって衆生を利益することができないのです。
この故に文殊師利、凡夫は仏法に復帰することがありますが、声聞にはそれがありません。
なぜならば、凡夫が、仏法を聞けば無上心を起こして三宝(さんぼう、仏宝、法宝、僧宝)を断たしめないようにできます。
たとい声聞に、死ぬまで仏法と、仏の力(十力)、仏の無畏力(四無所畏)などを聞かせたとしても、無上道を志すことはできません。』と。
如何でしょうか。
「煩悩の大海に沈む」
うーん、私はどっぷり漬かっているかな('-^*)/