少し前になりますが「梁職貢図」が発見され話題となりました。
詳しくはこちら、http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0005224764
と、いってもハングルですので日本語にすると
新たに明らかになった梁職貢図新羅提起
・清青黛文集から捜し出して..ユン・ヨング博士公開
「新羅は倭の属国」論争が予想される
韓国古代史研究の第一級史料の一つと考えれる梁職貢図で、永遠に失われたと考えられていた新羅と高句麗の簡単な説明の提起が最近、発見された。
特に、今回発見された新羅の提起には、新羅が倭の属国という一節があって、いわゆる任那日本府説とかみ合って論争が予想される。
韓国古代史専攻の仁川都市開発公社ユン・オング博士は20日、西江大茶山館で開かれた新羅史学会第107回学術発表会で、中国では、最新の発見報告された梁職貢図申し立てを分析、紹介した。
ユン氏によると、中国の学者ジョチャンブン(赵灿鹏)が発掘し、今年の初めに紹介した梁職貢図使節は、清朝中期時の人物で絵に造詣が深い長径(张庚。1685~1760)という人が模写した諸蛮貢職図だ。
残念ながら、長径がコピーした梁職貢図で各国の四神図はなくなり、各国別ジェギマン清末人ガルサドン(1867~1935)が編集した"エイルウムノソファソロク"(爱日吟庐书畵续录。1914)という文集(巻5)の"青蔵経ジェボンジクゴンドグォン"(淸张庚诸番职贡图卷)
という名前で再収録されたユン博士は説明した。
この文集のように収録された長径自身の跋文によると、最初に長径は、山西省ノソンヒョンジヒョン(諸レ城县知县)に勤務していた1739年、イタクイラヌン人から梁職貢図を借りてきて5日間で18人の使節、四神図とともに、その部分の題提をすべてコピーした。
ユン博士は、今回公開された梁職貢図題起を南京博物館旧藏本の梁職貢図いずれかの版と比較した結果、「新羅と高句麗を含む7カ国の提起は、完全に新しく出現した資料であり、
また百済と倭国をはじめとして、既知の9つの国の提起も内容に差が小さくない」と述べた。
特に、長径がコピーした梁職貢図で初めて姿を現した新羅の題起を見ると、新羅の国号はサラグク(斯罗国)で表記し、また、新羅が「韓に属したり、倭に属しもし、その国の国王は自分の私信を送り親交を結ぶことはできない」という記録が出てくる。
また、91文字のこの提起は、「量無制限の通常2年(521)に新羅王母胎(募泰)は、最初の百済の使者につけて私信を送り、表を上げて方物(特産品)を献上した。
その国では、城をゴンニョン(健年)と呼び、その習俗は高麗(高句麗)に似ている。文字がなく木を刻んで表示するとする。言葉は百済を経てこそ通ずることができる」とした。
この記録の中で母胎は募泰を誤って示したもので法興王を指し、姓を示す新羅語「健年」は他の記録を参照すると健牟羅の間違いと見られる。
ユン博士は、この内容の中でも、新羅が倭国に属することもしたという言及が新たに明らかになった大きな課題であり、これをどのように受け入れるかによって、歴史学界で議論が起こるだろうと付け加えた。
討論者の国立中央博物館イ・ヨンヒョン博士は「新羅の提起の発見は画期的な出来事と言える」と述べ、「新羅が倭に属したという記述も、この時代の東アジアの事情を考慮すると、いつかは出てくるだろう記録が出ただけで、だからと言って新羅が倭の属国となることもない」と述べた。
新羅と同様に、今回新たに明らかになった高句麗の提起(133文字)には、後漢光武帝初期に高句麗が使者を派遣して朝貢し、最初の王と呼ぶことを開始したなどの内容が見られるが、従来知られている高句麗関連記録を大幅に補足する点は、ないことが明らかになった。
一方、今回明らかになった百済提起には、既存の南京博物館旧蔵本梁職貢図に見える百済の夭折侵略、いわゆる百済が遼西地方を侵略し領有したという記述がない点が特徴として挙げられる。
新羅史学会ギムチャンギョム会長は「今回、新たに現れた新羅と高句麗、百済の提起を、既知の関連記録と詳細に比較検討すると、新しいことをたくさん言うことができると思う」とし「特に新羅の関連記録は、争点を養うことのできる大きな課題があり、注目を要する」と評価した。
となります。
『梁書』新羅伝には
新羅者、其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、不與馬韓同。又辰韓王常用馬韓人作之、世相係、辰韓不得自立為王、明其流移之人故也、恒為馬韓所制。辰韓始有六國、稍分為十二、新羅則其一也。其國在百濟東南五千餘里。其地東濱大海、南北與句驪、百濟接。魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。其國小、不能自通使聘。普通二年、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。
とあり
訳文は
新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。その言語、名称には中国人と相似があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民のゆえで、恒久的に馬韓が領土を制している。辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である。新羅は百済の東南に五千余里。東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。三国魏の時代は新盧と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と称した。小国なので、自ら通使を派遣すせることができなかった。普通二年(521年)、王姓を秦の名から募り、初めての使者は百済の遣使に随伴して方物を献じた。
です。
今回発見されたのは
魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也 或属韓或属倭國 王不能自通使聘
?通二年 其王姓募名秦始使随百濟奉表獻方物
其國有城號曰健年
其俗與髙麗相類 無文字 刻木為範
言語待百濟 而後通焉
で、訳文は
魏の時代は新羅と云われ、宋の時代は斯羅と云われていたが、実際は一つの国である。
或いは韓に属し、或いは倭国に属し、王は自ら通使を(梁などに)送ることが出来なかった。
普通二年に、姓は募名は秦というその国の王が百済に随って表(目上に奉る文書)を奉り貢物を捧げるようになった。
その国には城があり、健年と呼ばれていた。
習俗は高麗に似ており、文字はなく、木を刻んで範としていた(村境・国境などを示していた)。
言語は百済を待ち、通訳してもらう。
です。
ヨンさまが主演したドラマ太王四神記。その好太王(広開土大王)の碑には
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民。
訳文は
百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて 百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。
そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
です。
実は私の卒論がこの当たりなので実に興味深いところです。