毎朝、9時になったらZOOMでの瞑想に参加させてもらっているのですが、私が眼を開いているときはいつも、こんなもんを観ています。
部屋の窓から見た家の裏側です。 その向こうは森です。 よく見ると、夥しい種類の植物があるのがわかります。 これらにはすべて名前があります。 分類することができます。 そしてこれらは数日間で目まぐるしく姿を変えていきます。 ついこの間までは水仙が咲き乱れていました。 春の最初に咲いた花はクロッカスでした。 もうどこにも姿が見えません。
でも、瞑想しているときはこのような見かたにならなくなります。
全部が一つに見えるのです。 名前がなくなります。 井筒俊彦が言うところの、言葉による分節化以前の状態です。
この時、空も、雲も、光も、影も、蝶々も、鳥の囀りも、向こうにある桑の木も、イタドリも、肌に感じる暖かさも、自分が今している呼吸も、全部が「一つ」です。 全部が「一つ」でありながら、全てが欠かせないのです。
まったく「一つ」に観える時、その奥に何か、隠された、五官では捉えられないものが見えてきます。 その時、言いようのない深い喜びがあります。 理屈じゃないものが充溢しています。
奇跡講座の言う「この世界」とは、井筒に言わせれば、「妄想的に作り出された(存在性)」ということで、言葉の「本質」喚起作用にたばかられて、本当は何もないところに何かがあるかのようにわれわれの意識が妄想したもの ー それが経験的世界の一切の事物のあり方」『意識と本質』p. 23 とされます。
これに対して、実相世界とは、妄想的に作り出された現象的世界の奥にある非現象世界、井筒の表現を借りれば、「深層意識に開示される一切存在者の窮極的なあり方、本当の姿」なのではないかと思います。。
この現象界にある、あらゆるものは、「他によってのみ存在性を保つ絶対的に自立することのないあり方」、つまり、「縁起」と結び付けられるものであり、ここにそれ自体の「本質」は実在しない。 これが、奇跡講座の言う「実在しないものは存在しない。ここに神の平安がある。」の仏教的な説明です。
その意味で、奇跡講座は大乗仏教の形而上学に近いものがあります。 わたしは、以前まで、奇跡講座の実相をプラトンのイデア論的なものとしてイメージしていたのですが、今は、このプラトンからアリストテレス、トマス・アクィナスまでの論理によって実相を理解しようとするのは、大海の水を小さなスプーンで掬い上げるようなものだという気がしています。
